3 / 24

第3話

 昼食時の社員食堂はまばらに人がたむろっていた。  雑談で盛り上がるもの、黙々とただ食べ続けるもの、利用者の様子はそれぞれだ。ただ、僅かな間の昼休憩を有意義に過ごそうとしているのは共通のようである。  午前中の仕事が押した為、昼食はいつもの時間より少し遅くなってしまった。時計が差す時刻はすでに昼を過ぎ、そのために食堂は閑散としている。  クカが座るのはいつも窓際の席だった。会社ビル三階に位置する食堂からは、都会の灰色の風景を臨むことが出来る。と、言っても隣に建つ高層ビルの全面ガラス張りのオフィスが見えるだけなのだが。  目と鼻の先で優雅な昼休憩を楽しむ会社員を眺めながら、クカは泥水のように濃いコーヒーを呷る。安っぽいプラスチックのプレートの上に乗っていた昼食たちは既に胃の中に収まっている。正直なところ、あまりこの社食の味は良いものではない。 「な、どうだ。中々イケてるんじゃないか?」  対面に座る同僚、ペア・バトシュトゥバーがふとそんなことを口にした。彼の言葉が指すのは、決していまいちな社食のことではない筈だ。  クカが灰色の風景からドイツ人らしからぬ軽薄な笑みを浮かべる同僚の元に向け直すと、彼は最新型のスマートフォンをクカに見せつけるように掲げていた。煌々と照るスマートフォンの画面には、金髪の白人女性の柔和な笑みがあった。背景の自然が彼女の優しそうな表情をより美しく際立たせているようだ。 「イケてるって?」  バトシュトゥバーが差し出すスマートフォンを見つめながらクカは首を傾げた。  どうだ。  そう問われても答えに詰まってしまう。年若い白人女性、という印象以外何も抱かないのだ。笑顔は魅力的かもしれない。気の弱そうな、落ち着いた見た目の女性だった。 「急に女の子の写真を見せられても俺は困るだけだよ」  思ったままを返せば、バトシュトゥバーはマッシュポテトを乱暴に口に放り込んだ。この酔狂なドイツ人は、いつだってこの食堂のマッシュポテトを食べていた。そこだけはドイツ人らしい。  そうして粉のようなポテトを頬張り、ゆっくりと咀嚼する。 「……ん、この娘に興味ないかって話だよ。もう三年経つだろ」  少しばかり予想はしていたが、やはりそうだったか。  バトシュトゥバーとクカの付き合いはそれなりに長いもので、初めて出会ったのは大学の講義だった。趣味の方で意気投合し、気づけば同じ会社に勤めていた。どちらがどちらに合わせたという訳ではないが、同じ講義同じ趣味を持つ仲間であるからか。勤めたいと思う会社も似てしまったのだろう。  普段から仲の良いバトシュトゥバーであるが、彼はクカが離婚した後からは特に良く気にかけてくれていた。端的に言うと、女性をよく紹介してくれるのである。  事故後、妻との関係が冷え切った時から相談相手になってくれていたのもある。妻からもうし出された離婚を受け入れたのは、彼のアドバイスを加味してのところもあった。 「今はまだ興味ない」 「そう言ったってもう三年だろ」 「まだ三年だ」  そう、まだ三年だ。  あえて仕事に身を投じ、心に空いた虚無感を忙しさで埋め始めて三年。これからクリスマスがやってきて、年が明けて、夏が再びやってくれば四年になる。 「来年も同じこと言うんだろ。まだ四年、まだ五年……しまいにゃまだ十年か?」  マッシュポテトに汚れたフォークをひらひらと手の上で転がしながらバトシュトゥバーは続ける。彼の深い堀の奥底に鎮座する双眸はどこまでも真っ直ぐだ。 「そろそろ新しい人生でも見つけるべきだって。そう俺は思うがな」 「……新しい人生を君のスマホの中の女の子と見つけろって?」  そういうこと、とバトシュトゥバーは言う。  粉のようなマッシュポテトを泥水のようなコーヒーで流し込み、そうして続ける。 「この子、俺の嫁の知り合いの妹なんだけど、中々可愛いんじゃないか? それに何より若いし、頭もいい。秀才のピートにぴったりだろ? 今年ストレートで大学に入ったばっかりなんだ」  大学生?  クカは思わず聞き返していた。  バトシュトゥバーが掲げるスマートフォンをまじまじと見つめる。  大学生というならば、マルクと同じくらいだろうか。マルクもこの間二十歳になったばかりだ。 「……そんな若い子と俺は釣り合わないよ。犯罪的だろう」  クカは今年で三五になる。  家事代行の彼と同じほどだと考えると、年の差は十五歳程度。離れすぎではないだろうか。  若干引き気味のクカとは対照的に、バトシュトゥバーはご機嫌な様子だった。 「相手にピートの写真とプロフィールを紹介してみたらさ、それが好感触でさ。だって、ピートは顔もいいし、学歴もあるし、仕事だってばりばりこなすしって伝えたら、是非ペトルさんと会いたいって、滅茶苦茶嬉しそうに……」  ドイツ人は酷く饒舌に語った。  バトシュトゥバーは良き友人だったが、しかし、時たま行き過ぎることがある。彼は長年の友人に新しい春を見つけて欲しいとのことだろうが、流石に大学生の少女から大人の女性になったばかり、という子はあまりに若すぎる。  クカは軽く溜息をついた。 「……いい加減にしてくれ。ペア、君の好意は嬉しいけども、俺はまだ独りでいたいんだよ」 「まだあの女に遠慮しているのか? 事故で身を挺して守ってくれた旦那に別れ切り出すような女だぞ」  バトシュトゥバーの言葉につきりと痛みだすのは、側頭部に走る手術痕。  事故のあの瞬間が脳裏に蘇る。  まだ娘が生まれて三ヶ月ほど経った頃だった。日が暮れ始めて、あたり一体が赤く染まり始めた時間帯。クカは家族三人で出かけた公園から、自宅へと帰る途中だった。ベビーカーに乗せた娘が、疲れて眠っているその顔に目を落としながらゆっくりと歩いていたのを良く覚えている。その後間もなく轟いた痛烈な悲鳴も。  咄嗟に振り返れば、目と鼻の先には迫り来る車があった。そのフロントガラスの向こう側には、信じられないと顔に驚愕の表情を浮かべる運転手がいる。全てが緩慢になったあの瞬間。死の気配を濃厚に感じ取った脳は、風の流れさえ見えてしまいそうなコマ撮りの世界にクカを放り込んだ。そうして、スローモーションの世界に降り立ったクカが、真っ先に考えたのは妻と子の安全だった。  安らかに眠る娘を抱いたベビーカーを押す妻を、クカは渾身の力で突き飛ばした。そうでもしなくては、車はクカと共に妻と子をはねていたに違いなかったのだ。  その後の記憶はクカにはない。クカが再び目が覚めた時、そこは市の病院だったのだ。目撃者によれば、家族を暴走する車から守ったクカはまるでもののようにはね飛ばされ、頭からコンクリートの道に落ちたのだという。事故の衝撃は凄まじく、クカの頭蓋骨は容易く割れてしまった。何時間にも及ぶ手術で一命をとりとめたが、数週間も昏睡状態が続いていたという。  もしかしたら、と医師は妻にこう続けたそうだ。 『例え目覚めたとしても、旦那さまには重篤な障害が残る可能性があります』  その言葉は育児に疲れていた妻の心を粉々に砕いてしまった。  まだ赤ん坊の娘。頼れる両親はいない。夫は障害が残るかもしれない。幼い赤子を抱えたまま、夫の介護をしなくてはいけない。  彼女は悩んだに違いない。悩んで、悩んで、悩み抜いて。苦しんだ彼女が見出した道は、きっと人道的に許されるものではないだろう。  だけども彼女はそれを選んだ。  彼女を救う数少ない方法が、別れることだった。  それを唆したのが彼女を慕う別な男だったとしても、クカは頷くしかできなかった。 「まさか、娘が成人するまで待ってるなんてことは……」 「流石にそこまで頭は古くないさ。まだその機会じゃないってことだよ。いずれは、ってこと」 「そのいずれはいつ来るんだよ?」  そう訊ねられ、クカは答えに窮した。 「ピート、アンタは良い奴だ。人間としても、男としても。なんたって俺の親友だ。アンタの幸せを願わない奴がいるか?」 「ありがとうペア。でも、俺は」  クカは友人から一度目を逸らすと、ビルから展望出来る都会の街並みに視線を落とした。 「もう少し、独りでいたいんだ」

ともだちにシェアしよう!