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第4話

 夜の街。  いかがわしい店が建ち並ぶ通りは、ケバケバしいネオンの光で満ちている。  全く、酷く疲れたと思う。  今日の騒動で数ヶ月分の疲れが一気に出て来ているように思えた。首から肩、背中にかけて見えない何かが覆い被さっているかのように重い。ただでさえ残業続きの忙しい職場だというのに、更に新人のミスの尻ぬぐいに追われる始末。本来の仕事に手をつけたのは、日が暮れ始めた夕刻でのことだった。日付が変わっても会社を出ることが出来ないのではないかと危惧していたが、そこはクカにも意地がある。死ぬもの狂いで新人の尻ぬぐいと仕事を終わらせ、日付が変わる直前には会社を出ることに成功した。  ちなみに同僚バトシュトゥバーはまだ会社にいるらしい。帰宅途中、仕事が終わらないことに対する文句をクカのスマートフォンに送って来ていたので、クカのように疲労困憊、という訳ではないようだ。 『彼女と一度は会ってやってくれよ;)』  そんな言葉を文末に付け加えている位だ。全く、どういう育ち方をすればあそこまでストレスフリーな性格になれるのだろうか。実に羨ましいところである。  体中を襲う疲労感に潰されそうになりながら、クカは深夜の街をふらりと歩いていた。いつも利用している路線とは異なる、普段は使わない電車を乗り継いで、自宅への近道へと躍り出た。  それがこの歓楽街。 (……いつもなら、こんな道通らないんだけどなぁ)  内心溜息を吐きながら、クカは夜の街に煌々と照るネオンを見上げていた。ピンクにオレンジ、紫。いかがわしさ満載の看板と、寒さに震えながらお客を探す女たち。  いわゆる風俗街というものだ。法が定めたぎりぎりのラインを、乗り越えたり乗り越えなかったりする、そんな店が立ち並ぶ。  酒と女に溺れた男たちが下卑た笑い声を上げながらクカとすれ違った。この並びの店のどこかでしこたま酒を飲んできたのだろう。強いアルコールの臭気が鼻先を掠め、クカは無性にビールが飲みたくなった。  クカは歩く足を速めた。  こんな街、早々に通り抜けてしまわなくてはならない。  そうして幾つかのネオンの看板を潜り抜け、近道を駆け足で進んでいく。後少しだ、この通りを抜けてしまえばいつもの大通りに出る。大通りに出さえしてしまえば、瞬く間に自宅へと辿り着く。  そんなことを思った時だった。  ふわりと、キツい香水の匂いがクカの鼻孔を掠めていく。次いで感じたのはコートの袖を強く引かれる感覚だった。 「……疲れた顔のお兄さん、どう? アタシとイイことしてリフレッシュしない?」  そう言ってクカの腕を掴むのは、こんなにも冷えた真冬の夜だというのに酷く薄着の女だった。フェイクファーのコートを着ているが、その下に身につけているものは薄手のキャミソールとホットパンツだけだ。見ているだけで寒くなってくる。 「……悪いけど、急いでいるから」 「いいじゃない。一発、時間なんてかからないわ」  ちろりと赤い舌を出し、女は歓楽街のネオンによく似合う派手な化粧を施した顔をそっとクカのコートにすり寄せた。そんな女をやんわりと押しのけつつ、クカはそっと、それでいて刺々しく続ける。 「何回も言わせないでくれ、俺は急いでいるんだ。悪いけど、手を離して――」  しつこく手を離そうとしない女を見下ろしながら、クカはさらに冷たく言い放った。  そんな時。 「……マルク?」  通りの向こう側、より奥まった狭い道を早足に通り抜ける長身の男の姿があった。道行く商売女やその客の男たちよりずっとずっと背の高い影。  あの身長。あの高い鼻。あの紺のマフラー。  マルクに違いない。  だけども、どうしてこんな夜遅くに。こんな歓楽街で。  疑念が過ぎると同時、クカはやや乱暴に腕に絡みつく女の引きはがした。 「ちょっと、痛いわね」 「悪いけど、俺にそんな気はないんだ。別の男を誘えばいい。他にも男はごまんといるだろう?」  道の奥へと消えようとする彼の背中を視線で追いつつ、クカは女の側を離れた。爪先はもちろん自宅へと続く大通りではなく、あのケバケバしいネオン街の方角へと向いている。  背後で女が溜息を吐く。   「急いでいるんじゃなかったの? ……まさかゲイだったなんて思わなかったわ。時間、返して欲しいくらいね」  自分から勝手に絡んできておいて、全くなんて身勝手な女だろう。  クカは早足にそんな女の側を離れると、再び酒と快楽に満ちた歓楽街へと足を踏み入れる。  ネオン街に似合わない、地味で控えめな紺のマフラー。その房が揺れ動くその先を目指して、クカはマルクらしき人物の背中を追っていた。  クカの脳はすっかり判断能力を失っていた。長い間に蓄積した疲労と、それから一抹の興味によって正常な思考が出来ない程におかしくなっていた。それにクカ自身は気づいていないのだ。ただ興味本位に、家事代行の青年のプライベートを覗き見たいと思ってしまった。  そういえば、マルクはバーでアルバイトをしていたといたっけな。  そんな記憶がふとクカの脳裏に蘇る。  バーと一口にいっても種類は様々。普通に酒を飲むだけのものもあれば、スポーツ観戦をしつつ同じ趣味の仲間と飲めるバーだとか、女が接待するそんないかがわしいものもある。  もしかしたら、マルクはこの歓楽街の並びにあるバーでアルバイトをしているのかもしれない。横に幅はないが、縦にすっかり伸びきった二メートル近い彼の体躯は、酔っ払い客に頭を悩ませるバーでは重宝されることだろう。人間は本能的に自分より大きなものに畏怖の念を抱くものなので。  そんなマルクらしき人物の背中を追ってしばらく。  ようやく、彼は目的の店に辿り着いたらしい。  長身の青年が足を止めた店は、本当に奥まった位置にあった。まるで存在そのものを隠しているようにひっそりと構えた佇まい。自己主張の激しい他の歓楽街の店とは少し違う、雰囲気の落ち着いた店だ。  だけども、その色味の薄い看板には、他の歓楽街の店と同じように対象の性的興奮を煽るような絵が掲げられている。その看板の横を潜り抜け、青年は店の中へと入っていく。  クカは目を疑った。  看板に掲げられているのは半裸の男の写真だったのだ。その人種は様々で、たくましい肉体を見せつけるようにポーズを取っている。 (ゲイバー? それも……)  看板の内容の見るに、ただの同性愛者が集まるだけのバーではないようだ。  あのマルクがゲイセクシャルだったなんて、欠片ほども気づかなかった。そもそも、彼の性自認だとか、性的嗜好だとかそういったプライベートな話に足を踏み入れるつもりはなかったし、知るつもりもなかった。彼はただのハウスキーパーで、家事をクカの代わりに行ってくれるアルバイトの好青年だ。そんな彼がゲイだろうが、そうでなかろうがクカにはまるで関係が無い筈なのだ。  だけども。  そこで踵を返せば良かったのだろうけど、それが興味だったのか、それともまた別の何かなのか、クカ本人には分からない。ただ、気づいた時には、クカはそのバーのドアに手をかけていたのだ。  誘蛾灯にふらふらと惹かれる羽虫のように、クカは自身の愚かしい好奇心に突き動かされ、気づけばバーのドアに手をかけていた。 「IDを」  好奇心に毒されたクカの手を止めるように投げかけられるのは、冬の気候のように冷たい男の声。屈強な黒人男性が差し出す手は、クカの身分証明書を求めている。彼はバーの客の出入りを管理しているガードマンなのだろう。  ここはバーだ。  おまけに酒だけでなく大人のお楽しみが楽しめる、そんな男の娯楽の極みのようなこの店に未成年が入れば大問題だ。 「え? ……ああ、そうだね。はい、これでいいかな」  三〇歳の誕生日を数年前に迎えたクカのような男にまで声をかけるとは思いもしなかったが、治安の悪くなりつつあるこの時代、見た目の年齢や性別でID提示がパスされることはなくなったのだろう。  クカは普段から携帯しているカードケースからIDカードを取り出すと、黒人ガードマンに差し出した。受け取った彼は鋭い目つきでIDカードとクカを交互に目を向けた。カードが偽造のものでないか確認しているのだ。もちろんこのカードが偽造品である訳でもなく。 「……どうも、新入りさん。楽しんで」  間もなくガードマンが少しばかり厳つい表情を緩め、そっとIDカードを返してくれた。彼はその返した手で、バーのドアに手をかけると、その岩の様な見た目とは反して優しくドアを開いてくれた。  そうしてクカを出迎えたのは目映い閃光。  そして鼓膜を割らんばかりに鳴り喚くBGMだった。

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