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第5話

 薄暗い店内には酒の匂いが充満している。  頼もしいガードマンが守っていたバーは盛況。多種多様な人種の男たちが、この軽快な音楽を背景に酒を楽しんでいる。怪しい光に照らされる彼らの視線は、一極に集中している。  店内の中央。  最も目立つ位置にあるお立ち台。  想像通り、この店はゲイ向けのストリップバーらしい。  そこでは男性ストリッパーたちが過激な衣装に身を包み、その衣装に負けず劣らずの扇情的な踊りを踊っている。お立ち台の最前列を陣取る客は、そんなストリッパーたちの衣装の隙間におひねりをねじ込んでは、過激なポーズを取らせ下卑たヤジを飛ばしていた。  目眩がクカを襲った。  まるで異世界に迷い込んでしまったかのよう。重力が正しく働いているのかさえ曖昧に思える程に、クカの気は遠くなっていた。  ストリップバーなんて、ストレートの男性向けのものでさえ入ったことがない。だのに、初めて入った店がゲイ向けの風俗店なんてあまりに刺激が強すぎる。  今にも局部が見えてしまいそうな半裸の男たちがお立ち台で踊り狂い、客たちがそれを肴に酒を呷る。最奥に設置されたカウンターバーから忙しなく酒を持って行き交う店員たちさえも、客を楽しませる為なのかどこか露出度の高い衣装に身を包んでいる。 (――こんな店にあのマルクが?)  週に三度、自宅に訪れては家事代行のアルバイトをこなしていく好青年の顔を思い出し、クカは益々気が遠くなって行くような気がした。激しく点滅する照明に眩む目を労るように、クカは目頭を優しく揉んでやった。  性欲を顔面に浮かべた男たちの合間を縫ってふらふらと店内を歩いて回り、酒を運ぶバーテンダーたちの顔をちろりと見て行った。顔を見ずとも、あの長身のマルクだ、この薄暗い店内でも見つけることは容易い筈だ。  しばらく回ったところで、クカは諦めることにした。  見間違いだったのだ、と。  そう思い込んで、この店を出て、家に帰り、冷蔵庫でキンキンに冷えているであろうビールを二本ほど呷り、寝て、この歓楽街でマルクらしき人物を見かけたことさえすっかり忘れてしまおう。それが正解だろう。マルクがこの店の客であろうと、この店の店員だろうと、彼がハウスキーパーとして働くことに何の問題も関係もないのだから。  ふらつく頭にそっと手をやり、クカは無意識に手術の痕を撫でやった。すこし盛り上がった傷痕の感触がかさついた指先に広がる。暖房と男たちの熱気ですっかり暑くなった室温からか、うっすらとクカは汗をかいていた。 「やぁ、アンタ初めて見る顔だが……大丈夫か? 顔色が悪いけど」  店内に入ったきり、お立ち台に向かうわけもなく、酒を頼むわけでもない挙動不審なクカが気になったのだろう、店員の一人が怪訝そうに声をかけてきた。他の店員たちとは少し形の違う制服に身に纏う男は、どうやらバーテンダーのようである。バーカウンターの向こう側に立つ彼は、色とりどりな酒瓶を背景にこちらを見やっている。 「……あ、ああ。こういう所は初めて来てね。少し戸惑っていたんだ」 「そうか。ま、童貞にはここはちょいと刺激的過ぎてキツいかもしれねえな」  やや下品な冗句を飛ばしながら、バーテンダーは肩を竦めて笑う。ダークブラウンの髪を後ろに撫でつけた厳つい顔をした男で、そんな彼が浮かべる笑みはあまり快いものではなかった。バーテンダーは白いシャツの袖に覆われた、長い腕をクカに向けるとそっと手招きした。 「まあこっち来いよ。何か飲んだらいい。酒を飲んでりゃ、だんだん居心地が良くなってくるもんさ。アンタ、初めての人間らしいから、一杯サービスしてやるよ」  俺の奢りだ、とバーテンダーは気さくな語調で続ける。  クカはぐるりと辺りを見渡し、それからじっとバーテンダーの方へと視線を向け直した。帰ろうかとも思ったが、一杯ただのアルコール、その魅力には抗えなかった。 「ビールはある? できれば瓶の奴で、チェコ産のがいい」  カウンター席に腰を下ろし、未だこのど派手なバーの照明になれない目を何度も瞬きさせつつクカは訊ねた。 「……ビール? ちょっとここにはあんまり種類がねえな。カクテル用の酒ばっかり揃えているもんでさ」 「なら、ある奴でいいよ」 「ちょっと待ってろ。瓶ビールだな」  バーテンダーはカウンター下を覗き込むと、冷蔵庫から冷えた瓶ビールを取り出した。キンキンに冷えたビールは氷霧を纏って飲まれるのを待っている。そんな瓶に手をかけて、手早くバーテンダーは栓を抜いた。ラベルを見るにイギリス産のビールらしい。あまり好きな銘柄ではなかったが、今はアルコール分と麦の成分を摂取できればそれで良かった。  クカは冷え切った瓶を手に取り、およそ三〇〇ml程度のビールを一気に喉に流し込んだ。弾ける泡と、麦の香り、それから仄かに舌を麻痺させる苦み。冷たいビールが流れて行った喉がかあっと熱くなっていく感覚がたまらない。  酒だ。たまらない酒。疲労に満ち、判断力さえ低下した脳に癒やしを与える百薬の長。  クカは胃に流れ込んだアルコールが熱を持って体内を駆け巡るのを感じつつ、ふうと一息。場所がどんなところであれ、アルコールは等しく人を酔わせてくれる。 「それで、アンタ、今日はなんでここに来た?」  再び、瓶に口をつけたところで、厳つい顔をしたバーテンダーがそんなことを訊ねてきた。 「……なんで? って、それは、一体どうして?」 「そりゃ、ここに似合わない格好してるからさ。お堅い人間が、そのままの格好して来るような場所じゃねえし。ピーコートをぴっちり来て、革の鞄片手に来るなんてさ。ちょっとらしくないだろ?」  そう言ってバーテンダーは深い堀の奥底に隠れた緑の瞳で、怪しい色の照明に照らし出された客たちに視線を向ける。確かに、ここに居座る客のほとんどが軽装だ。酒を呷り、舌なめずりをしてストリッパーたちの体を眺めている。クカのようにかっちりとした格好をしている人間はどこにも見当たらなかった。  クカは一口ビールを含み、それを嚥下するとぼそりと答える。 「気になる人を見かけてね……それでさ。本当はここにくるつもりは微塵もなかったんだ」  嘘はどこにもない。  好奇心に突き動かされて、このバーに足を踏み入れた。本当ならば興味本位で入ることだって許されない立場だったが。 「ふぅん。それって、今晩の相手か? それともパートナー? 後者だったらお勧めできねえな」  バーテンダーは肩を竦めて見せると、ゆるりと口を開いた。 「なんせここはストリップバーだ。野郎の裸見て興奮する野郎たちが、楽しむ為の場所だからな」 「しかし、凄い場所だ。あまりこういう場所は馴染みがないから本当に驚きばかりで」  クカは離れた位置にあるお立ち台を見上げつつ、そんな事を口にした。最早ほとんど全裸に近い格好で、踊り狂っているストリッパー。それをはやし立てる男たち。異性愛者向けのストリップバーと内容はそんなに変わらないのだろうけども、耐性のないクカにはあまりに強烈に映った。 「頭おかしくなきゃ、こんなショー見てらんねえだろうさ」  自嘲するように笑う彼の言葉で、会話は終わってしまった。  後に流れるのは軽快なBGMだけだ。  クカは残っていたビールを呷ると、空になった瓶をカウンターにそっと置いた。それからコートのポケットから財布を取り出すと、銘柄から割り出したビール分の代金を瓶の横に並べる。異性愛者だという罪悪感が、クカの腹の奥底に重くのし掛かっていた。 「ビールありがとう。やっぱり奢りは悪いから払わせてもらうよ。受け取ってくれ」 「……もう帰っちまうのか? ショーはこれからだってのに。そう、最高のショーがさ、これから始まるんだよ」  バーテンダーがたっぷりと自信を持ってそう口にした時だった。  ふと照明が一段階暗くなったかと思えば、先ほどまで店内に響き渡っていたBGMのふつりと途絶える。踊りの時間が終わったらしい。  お立ち台の方に目をやれば、そこには一人の中年男性がストリッパーたちの代わりに立っていた。もしやこの男が脱ぐのか、とクカは思ったが、男が持つマイクを見るにどうやら違うらしい。 「どうも。相変わらずろくでもねえ客ぶれだ。何人かは新しいのがいるみたいだが……」  司会者体の男が、ノイズ混じりにそう話す。  この店を取り仕切る幹部か、それともオーナー本人かは不明だが、この店に置いてかなり高い立場にいる人間らしい。彼は狭い店内をぐるりと見渡し、黄ばんだ歯を剥き出しにして続ける。 「ショーは楽しんでもらえてるかな? まあ、これからのお楽しみタイムに向けて浮き足立ってるってのは、ここから見てもよく分かる」  しんと静まり返った店内に、早くしろと客のヤジが飛ぶ。 「全く、せっかちな奴ばっかりだ。まあ期待に応えて、この店一番のビッチの登場だ!」  男が手を振り上げたその時、BGMが切り替わる。  色とりどりの照明が一斉にお立ち台の奥、降りた幕の向こう側に向けられた。  客の期待の視線を焦らすように揺れ動く幕の向こうから、先ほどまで踊っていたストリッパーと同じような、露出高めの衣装を着込んだ男が現れる。  わ、と店内が色めきだった。  すらりとした痩身。輝かしい舞台に長い影を落とす長身の男だった。目元を隠す黒いマスクの下、つんと高く尖った鼻が特徴的な彼は、強い既視感をクカに植え付けた。 「…………マルク?」  少し離れたカウンターバーから見上げてもよく分かる、あのストリッパーの特徴的な体つき。  マルク。  あの家事代行の青年によく似たストリッパーがそこにいた。

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