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第7話

 ストリップバーでの出来事は、夢の中の出来事のように思えた。悪い夢を見たような、そんな気分でクカは一日を過ごした。  ふらふらと、何となく、まだあそこで飲んだビールのアルコールが頭に残っている、そんな感覚。二日酔いとはまた違う、高熱を出したときのような、あの、まるで重力から突然開放されたような違和感に近い。  あまりに調子が悪いので今日は早めに切り上げた。お調子者の同僚がどうしたんだと訊ねてきたが、風邪を引いたんだと適当な嘘で取り繕った。まさかゲイバーに足を運んで、偶然、知り合いの青年がストリッパーとして下品極まりないショーに出ていたことに精神的衝撃を受けた、なんて正直に話せるほどクカは明け透けではない。  しかし、定時に上がれたのはいつ振りだろうか。今は午後六時。各家庭の夕飯の匂いが街を覆い尽くす時間帯だった。いつものどんよりとした曇り空を見上げながら、クカはぽつぽつと灯る街灯の輝きを追うように自宅を目指す。  もう二度とあの近道を通ってなるものか、とクカは誓った。  どれだけ遅くなろうと、あの道を通ることは二度とないだろう。  昨晩、這々の体で通り抜けた近道の入り口が視界の端に映ったが、クカは脳の片隅にその気配を押しやった。  そうしてようやく辿り着いた寂しいマイホーム。手入れの行き届いていない閑散とした庭を横目に通り抜け、玄関ドアの鍵を開け、そこで、しまった、とクカは後悔した。  玄関ホールの傘立てに見慣れた紺の傘。  それはクカが愛用する蝙蝠傘とは僅かに形状が異なった。  今晩の天気予報を考慮して彼が持ってきたのだろう。今日は雪が降ると天気予報士がやる気なさげに解説していたのだったか。  ――マルクがいる。  そう脳が判断したその瞬間、クカの体は強ばった。  昨晩の、異世界の出来事のような、あのストリップショーが脳裏に再生されていく。彼の顔をまともに見られる自信がまるでない。  そうだった、今日は木曜日。マルクが家事代行のアルバイトに訪れる日だった。 「……やあ、誰がやってきたのかと思ったら、ピートか。びっくりしたよ。急に玄関が開いたと思ったら、中々入って来ないしさ」  強盗かと思ったよ、と冗談めかして笑うマルクは、昨晩クカが自身のストリップショーを見ていたとは毛ほども思ってはいないのだろう。週に三度、顔を合わせるか合わせないか程度の付き合いである。観客の中にクカが紛れていたとしても、すぐには分からないだろう。 「あ、飯作る前に、先言っとく。今日は前出したスーツ一式取ってきたよ。ちゃんとクローゼットの中にしまっといたから、覚えといてくれよ? 夏になって探し回ることがないようにさ。見当たらなくても、オレが盗んだ訳じゃないからな」  彼は何も変わらない。一年前にクカが雇ったあの日と寸分違わない。マルクにとっては、あのストリップショーもこの家事代行の仕事と同じ日常の一部と変わらないのかもしれない。 「……ああ」  返す声はとても小さく、そして暗かった。  どんな表情をして彼の顔を見れば良いのか、まるで分からなかった。彼の隠された秘密を、一方的に知ってしまったこの罪悪感。  好奇心は猫をも殺すというが、まさしくその通り。ふと心中に目覚めた好奇心が、ただの雇い主とアルバイトという良好な関係に影を落とそうとしている。 「……もうちょっと遅くなるかと思っててさ、夕食まだ準備出来てないんだよ。少し待っててくれるか?」  そう言ってマルクは踵を返すと、リビングルームへと歩を進める。  クカはぱちくりと瞬きしつつ、マルクの後ろ姿を見つめた。いつもの服装。無難で質素で落ち着いた色合いのパーカーに、タイトなジーンズ。彼がその長身に合う服がないとぼやいていたのを思い出す。その私服を覆うのはシックな色合いのエプロンだ。家事をするのに必要になるからと、どこぞの雑貨屋で買ったのだと聞いた記憶がある。 「そうだね。待ってるよ。リビングで今日残った仕事を少し片付けているから、終わったら話しかけてくれるかな」 「ん、分かった。じゃあ今から料理始めるから」  リビングルームのファミリー向けのソファーに腰をかけ、クカは持ち帰った仕事の一部をテーブルの上に広げた。仕事と言ってもさして重要でもない資料の一部をデータに直すだけの簡単なお仕事だ。ほとんどスキャンするだけで良かったし、データをPDFファイルにして同僚に送ればミッション完了。  ノートパソコンのキーを叩きながら、背後のキッチンから聞こえてくる軽快な音をBGMに仕事を進める。包丁が野菜を切りまな板を叩き、たっぷりの水を入れた鍋がぐつぐつと音を立てる。ふと鼻孔を擽る香辛料の僅かな刺激的な匂いに、胃の中身がすっかり空になっていたことを思い出す。 「もう出来る?」 「もうすぐだよ。またありきたりな野菜のスープと、主食のパンにサラダ。そろそろピートも飽きてきた?」  このやりとりに、家族みたいだと何となしに思い、そして、ああだからかと勝手に納得する。  クカは家事代行のアルバイトに過ぎない彼に、身内に近い感情を抱いていたのだろう。年の離れた弟のように。だから、あのショーを見て、勝手にショックを受けている。何をしようが、何を思おうが、それはマルクの自由。彼は血縁関係もなければ、友人ですらないのだ。 「な、ピート、どうかしたか? 勤め先で何かあったとか? いつも……っていっても数分喋る位だけどさ、様子が違うっていうか……何て言うか、変だぜ、今日のアンタ。そんなに寡黙だったっけ?」  冗句への返事がないせいか、不安になったらしいマルクが声をかける。鍋を熱するコンロの火を消し、長い首を傾げてはソファーに腰かける雇い主の機嫌を伺い見る。白く長い首の付け根に残された赤い痕が、クカの頭を更に動揺させた。 「……いや、そうじゃないんだ。ちょっと疲れてて。実は昨日、少し飲み過ぎちゃってね。二日酔いって奴だ。全く、アルコールの量を調節するのは難しい。すぐに飲み過ぎてしまうから」  疲れた表情筋に鞭打って、クカは歪な笑みを浮かべた。  酒のせいだと嘘をついて。昨日は確かに飲んだが、その量は三年前に飲んでいた量と比べれば雀の涙のようなものだ。  クカの返答に安堵したらしいマルクは、濃い眉を器用に片方だけ上げて見せると、確かに、と続ける。 「ピートはビールが好きだよな。今日もいつもの銘柄の奴買って置いてあるから、ちょっと早いけど、飲みたかったら冷えたやつちゃんとあるからさ」 「気を遣わせちゃって悪いね。俺は大丈夫だよ。ただ、今日は飲まないでおこうかな」 「そう」  結局会話はぎこちないままで、マルクは時間が来たからと帰ってしまった。残されたのは、彼が手にかけた夕飯だけ。ブイヨンベースの野菜スープ。それが酷く旨かった。

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