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第8話

 最後にデートなんてものを経験したのは、果たして十何年前のことだったか。若い女性の好みというものはよく分からないが、デートをする相手が不快に思わない程度にカジュアルであればよいだろうかと、いつものコートの下にジャケット、それからYシャツを選んで身につけた。スラックスはちゃんとプレスされたおろしたてのもの。この間マルクがクリーニングに出してくれたものである。  待ち合わせ場所はデートの定番であろう駅の昇降口。  都市部の主要駅、おまけに祝日、更に悪天候という条件も相まって駅は人でごった返していた。金髪、黒髪、栗毛、それから思い出したように混ざる赤毛。様々な人種が行き交う駅で、彼女を待ち初めて数分が経過していた。 (……寒いな)  拓けたプラットホームに吹き込む風に首筋を撫でられ、クカはぶるりと身震いした。あまり着込んでも不格好かと無駄に気を遣って少し薄着にしすぎただろうか。ふうとついた息も白く色づいている。  明日はこの時期に良くある曇天の一日になるでしょう、だなんて予報士が口にしたのは昨日の朝のこと。科学技術は進んでいるだろうに、完全完璧の天気予報の方法が確立されていないのはどうしてだろうか。  今日は例年希に見る大雪となった。  昇降口の向こう側は一面の白である。普段傘を差そうとも思わない年若い男たちが挙って傘を差すほどの雪である。  こんな日にデートだなんて実に間の悪い話である。  しかし、まあ、デートをするなら最高の日付でもあるか。  クカは駅のホームに聳える一本の樅の木を見上げた。  この日の為に精魂込めて育てられた立派なクリスマスツリーである。色とりどりの輝かしい装飾を施されたツリーは、外から吹き込む粉雪を被りそれらしい雰囲気を醸し出している。やや被りすぎな気もしたが。 (クリスマスか)  聖人の誕生を祝うこの日だが、クカはここ数年祝った記憶がとんとない。週の休日数が二日も存在しない、そんな職場に勤める以上、中々この日に休みをもらえる機会がない。今回は本当に運が良かった。   ツリーの下を行き交う人々が産み出す混色の川を眺めていると、見覚えのある金髪の女性が川の流れに逆らって泳ぐ小魚のごとき動きでこちらに近寄ってくるのが目に留まった。以前同僚、バトシュトゥバーに見せられたあの写真の女性によく似ている。豊かな金の髪を一つに束ねており、その金の尾っぽは防寒対策に被られた赤いニット帽の隙間からひょこりと覗いている。 「あの、クカさんですか?」 「ああ、君がエルザさん?」  名を訊ね返すとこくこくと頷く彼女は、写真で見た時よりずっと活発な印象をクカに抱かせた。寒さと緊張からかすっかり赤くなった頬を暖色系の色でまとまったマフラーに埋めて、上目遣いにクカを見上げている。  名前はエルザ。バトシュトゥバーが勝手にクカを紹介し、やや強引にデートの約束を取り付けた女子大学生である。年齢はマルクと同じほど。なるほど、可愛らしい女性だった。蝶や華よりかは、リスやウサギといった小動物のような印象だ。彼女が思った以上に小柄だったのもあるだろう。体の内から溢れ出る若々しさが、その顔に滲み出ている。 「大変だったろう。今日は人でごった返しているから」 「雪、凄いですもんね。すみません、こんな日に……」 「いやいいよ。天気予報士にも読めなかった悪天候だから、しょうがない」  クカは多忙な社会人だ。おまけに会社はネット上のブラック企業リストに名を連ねる程に悪名高い企業である。休める日はほとんど無い。予定を擦りあわせるのも難しく、この時期を逃せば次に会えるであろう日は冬を通り過ぎた春ぐらいにしか無かったのである。  どうしても会いたい、というエルザ(これはバトシュトゥバー談であるが)の要望を聞き入れ、この日を選んだのだが。  しかし全く酷い日である。  街中を彩る電飾立ちが純白の雪の下敷きになって、これではムードもクソもない。西の果てに住まう人々のほとんどがこの日を心から待ち望んでいただろうに。  こんな大雪の最中を連れ回すことになるのだったなら、もっと強めにバトシュトゥバーの誘いを断ってしまえば良かったのである。だけども元来押しに弱い性格であるクカは、親友の渾身の願いを撥ねのけるほど強くない。どうしても、と言われるとどうにも断れない。 「電車、大丈夫でしょうか……」 「一応ちゃんと通常通り運行しているみたいだよ。地下鉄はもちろん、普通の鉄道もね。明日がどうなるかは分からないけど」  クカはホーム天井からつり下げられている電光掲示板に目をやった。時間は幾らか遅れているが、通常通りの運行状態だ。 「ええっと、……それじゃあ、その、行きましょうか? 私、お勧めのカフェがあるんです。もし、クカさんの行きたいところがあるというんでしたら、そちらを先に……」  バッグの中から取りだしたグルメ雑誌らしい本を開きながらエルザは続ける。幾つかのページに付箋紙が貼られているのを見るに、今日の為にリサーチしてくれていたのだろう。そんな若い彼女の涙ぐましい努力を無碍には出来ない。クカはゆっくりと顔を左右させると、いや、と続けた。 「君の行きたいところでいいよ。雪も酷いし、早くチケットを買って行こう?」  こんもりと膨れるくらいに防寒着を着込んだ彼女に目配せして、クカはゆっくりと人々の川に身を投じた。デート相手のエルザが川に飲み込まれてしまわないように気をつけて。  そうしてチケットを買い、エルザが言うお勧めのカフェを目指して地下鉄を乗り継いだ。やはり雪のせいか人が多く、中々移動がはかどらない。電車の中で揺られながら、ぽつりぽつりと会話を交わす。年の離れた相手だからかクカはあまり話題を思いつかないが、どうやらエルザは違うようだ。彼女は湧き水のように質問を思いついてはクカに投げかけてくる。普段は何をして過ごしていますか。仕事はどんな職種ですか。学生だったときはどんなことを学んでいましたか。等々。彼女は好奇心の塊のようだった。  エルザが訊ね、クカが答える。そんな質問と回答の応酬を繰り返す中で、エルザが緑の瞳を輝かせながらこんなことを口にした。 「最初クカさんを見かけたとき、ちょっとビックリしたんです」 「ビックリ?」 「だってとっても背が高いじゃないですか。遠目でもすぐにわかりましたよ。あの人がクカさんだって」 「え、ああ、そうかな。そんなに大きい?」  クカは自身の頬を掻きながら、エルザの反応に少し驚いていた。  確かに、この電車の中を見渡してもクカほど背の高い人間は少ない。大柄な方だとは思ってはいたが、どうにも週三度自宅を訪れる家事代行の青年がクカよりずっと大きいものだから、自分の大きさというものをすっかり失念していた。同僚、バトシュトゥバーも大柄な方であったし、感覚が麻痺していたのかもしれない。  クカの反応に、エルザは語調を強めて返す。 「大きいですよ! この駅で一番目立ってましたからね。その身長、少し分けて欲しいくらいです」 「俺より大きい人とよく顔を合わせるから、自分が大きいってことを度々忘れそうになるんだ」  クカの言葉に、エルザが興味を示す。  彼女は自身が平均より小柄なことを気にしているようである。そのため、背の高い低いという話題に興味を引かれるらしい。 「そんなに大きい人がいるんですか?」  彼女は興味津々といった様子で訊ねてきた。 「……ああ、俺の家にハウスキーパーのアルバイトに来ている人がいてね。彼は二メートル近くあるんだ。大きいだろう? 最初見たとき、凄く驚いたんだ。こんな大きい人がって、思ってね」 「二メートル?! 凄いですね、私の二倍ぐらいあるんじゃないですか?」 「あははっ、それは流石に大きすぎるだろう。三メートルになっちゃうよ」  エルザの冗談に笑みを浮かべた時、丁度地下鉄が目的の駅に到着した。それから人の流れに沿って電車を降り、地上を目指す。エルザの行きたいカフェはこの駅から徒歩数分程度で着くようだ。  駅を出たら、そこは純白の世界。雑踏が踏み荒らす道以外は一面の白で埋め尽くされていた。  隣で着込んだエルザがぶるりと身を震わせた。着ぶくれするくらいに防寒着を着込みに着込んだ彼女でも寒く感じるほどに外は冷え込んでいる。 「うぅ、本当に寒いですね。私が生まれて初めてじゃないかってくらい雪降ってます。これ、積もりますかね」 「積もるだろうね。経験上、こういう雪はしつこく街中に居座り続けるんだ。俺の地元もこんな風に雪が良く降ってね。だから、やっかいな雪ってのはよく分かるんだ」  傘を差し、踏む荒らされた雪の道を行く。白い雪の平原に道を造り出す人々の足跡も、明日の朝にはすっかり覆い尽くされてしまうのだろう。都会は雪に慣れていないところが多い。道行く人々は、皆、ここまで積もった雪の上の歩き方、というものを知らないようだ。  ちまちまゆっくりと進む街の人々とエルザはそう変わらない。何度も滑りそうになりながら歩く彼女の横を並んで歩いていると、不意に、エルザが足を止めたのである。別段、雪に足が取られた、という訳ではないようだ。不審に思い、そっとクカはエルザに声を投げかけた。 「……どうかしたのかい?」 「さっき言っていた家事代行の人って、あれぐらいなんじゃないですか? 凄く大きいですね~。なんだか別の世界の人みたいで……」  エルザの緑の視線が、はらはらと降る雪の合間を縫って一人の男に向けられていた。街を行き交う人から頭一個は抜けて大きい身長の持ち主、良く見慣れた黒髪の青年に。 「……ああ、そうだ、あれぐらいだった、と思う……」  クカはそんな曖昧な言葉を口にしていた。彼がさっき言っていた家事代行の人だよ、と答えることも出来たけれど、言いよどんだのには訳がある。  厚手のダウンジャケットを着込み、鼻の先まで真っ赤に染めた彼は、二メートル近くの体躯を小さく縮めながら、雪降りしきる街を歩くマルク。その隣に並んで歩く、これまた見慣れた男。  バーテンダーだ。  あの晩、クカが好奇心に殺された日。ゲイバーに戸惑うクカに酒を奢ってやると言ったバーテンダー。彼の名前をクカは知らないが、顔は良く覚えている。ダークブロンドに無骨で気むずかしそうな顔立ちをした男だ。  今日は二人ともオフの日なのだろうか。それともこれからあのバーに向かう最中なのだろうか。それとも―― (恋人同士?)  こんな日だ、そう勘ぐりたくなる気持ちも分かるだろう。  きっとマルクは同性愛者だ。あんなショーに出ているくらいだし、まあ、もしかしたらどうしようにもならない理由であのショーに出ているのかもしれないが、それはクカの知る所ではないし、踏み込んで良い領域ではないだろう。思えば、あのバーテンダーはマルクのことをよく知ったような口ぶりだった。あの日、強い酒を飲んでいたが、思いの他記憶は鮮明だ。 (いや、俺は何を考えているんだ)  ただのアルバイトの青年の、プライベートの事などどうして気にする必要があるというのだろう。 (バーになんて行かなきゃよかったんだ)  クカはあの件に関しては酷く後悔していた。あれ以来、どうにもマルクが気になってしかたないのである。ショックが大きかったのだろうが、それは自己責任だ。  いや、しかし、全くよく見かけるものだ、と思う。  彼の長身が目立つせいだろうか。生活圏が近いことは、彼に家事代行を依頼した時から知ってはいたが、しかし、こうして遠出した日に見かけるとは思わなかったのである。 「……クカさん? どうしました? 行きましょう?」  マルクに目を奪われ、クカは足を止めていた。しばらく行った先で怪訝そうにこちらを見やるエルザにクカは苦笑を浮かべてみせた。 「……あ、ああ、すまないね。それじゃあ行こうか」 「はい、行きましょう! こういう日はホットココアでも飲んで暖まりましょう」  今は年若い彼女とデートをしているのだ。  エルザを退屈させないことが、今のクカにとって最重要項目だということを忘れてはいけない。悲しませれば、彼女を紹介してくれたバトシュトゥバーがただでさえ煩いというのにまた更に煩くなってしまう。  エルザのニット帽の合間から覗く金の尻尾を追いかけて、クカは冬の道を早足に進んだ。ぞくりと身を襲う悪寒を頭の中から追い出しながら。

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