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第9話

 ぴぴぴ。  電子音が検温の結果が出たぞと知らせる音を聞き、クカは体温計を服の下から取り出した。 「……熱」  そうぼそりと呟く声はすっかり嗄れていた。  小さな液晶画面に表示された体温は三八.九度を示している。どうりで昨晩から悪寒が止まらない訳だ。風邪を引いてしまったらしい。電車で移されたのか、もしくはカフェの中でかそれは定かではないが、あの薄着が要因になったことは明白だ。  デート相手の彼女はあれだけ着込んでいたのだ、恐らく風邪は引いていないだろうが。  酷い頭痛を訴える頭をさすりながら、熱で浮かされた体に鞭打ってクカはサイドテーブルに置いたスマートフォンに手を伸ばした。それから手早く上司に連絡を入れ、休むことを伝えた。上司はクカが休むことを酷く渋っていたが、無理なものは無理だとはっきりと伝えておいた。これで評価が下がろうともクカにはどうでもよいことだ。同僚たちに風邪を移す方がよっぽど迷惑だろうと思う。  さてどうしようか、とクカはベッドの上でぼんやりと思った。  食欲はない。動く気力もない。常備薬の風邪薬を飲んだので、すぐにでも熱は下がると思うが、果たしてどうだろうか。やっかいなのはこの体に変調をきたしているものが、インフルエンザウィルスだった場合である。医者に行くのは億劫だったし、熱ですっかり感覚がおかしくなった体で車を運転してかかりつけの医者の所まで行くのも一苦労だ。妻がいれば、彼女が車の運転を引き受けてくれたものだろうが。 (……全く、気弱だな)  とっくにいなくなった家族のことを考えるだなんて、全く、熱とは残酷なものである。  そんなことを考えながらクカは咳をした。頭痛も酷いが喉の焼け付くような痛みも酷い。ほんのちょっとの刺激を与えるだけで、灼熱の痛みが喉全体に走るのだから困ったものだ。  このまま起きていたってどうしようにもない。何年ぶりかの高熱に浮かされ、孤独を心細く感じ始めた自分を眠らせようと、掛け布団を頭の先まで埋まる位にすっぽりと被り、クカはそっと目を閉じた。再び目を開ける時は熱が下がっていてくれたならよいのだけれども。  そうして、どれほど経ったか。  寝汗でしっとりと湿った寝間着の、その気持ち悪さで目を開けた時、窓から差す冬の日差しは傾きつつあった。赤く染まった寝室内を熱で滲んだ視界で捉えれば、見慣れた背の高い影がびくりと肩をふるわせる。彼は誰だったか。夕日の中に立つ彼が誰だったのかまで判断が出来ない程に、脳は熱で判断力が低下してしまっているようだ。どうやら熱は下がっていないらしい。 「……悪い、起こすつもりはなかったんだ」  みっちりと生えた黒髪の下、太く黒い眉を寄せて困った様子で肩をすくめる青年は、夕日の赤を携える黒曜石の瞳でクカの方を見下ろしていた。 「マルク?」  嗄れた声は彼の名を呼んでいた。朝よりも数段酷く嗄れている、聞くに堪えない声を聞き、マルクは少し驚いた様子で目を丸くさせる。そんな彼の反応などお構いなしに、クカはダブルベッドの上で横たわったまま話しかけた。 「今日……君が、来る日だっけ?」 「一応は。ボクシング・デーだけどね。プレゼントくれる相手なんていないからさ」  誰もが知っているように我が国のクリスマスは祝日で、その次の日の二六日も一応祝日となっている。ボクシング・デーと言ってツリーの下に置いたプレゼントを開ける日となっているが、そんな心温まる日に休みを取っても良いと言うほどクカが勤める会社は優しくない。 「…………すまない、見ての通り、酷い風邪をひいて……連絡を忘れて、いたよ……」  喉の炎症は来るところまで来た、と行った具合だ。正直、朝の内に病院に行かなかったことを後悔しそうな程だった。 「道理で平日の昼間から寝てる訳だ。そのひっどい嗄れた声出すのも大変だろ? 何も喋らない方がいいぜ」 「…………君は、もう帰った方がいい。今日は休みで……移ったら大変だし……折角の、ボクシング・デーだし……」 「分かった。ピート、アンタは寝てなよ。その声、聞いてられないしさ」 「……すまないね……」  家事代行の青年の影が寝室から消えた時、クカは深く息をついた。低い天井がぐるりと回転しているように見えるのは、益々熱が上がっているせいだろうか。何か夕食の代わりになるものを無理矢理口にねじ込んで、解熱剤でも飲まないといけないだろう。  明日は億劫に思っても、必ず医者に行かなくては、とクカは思った。熱は下がる気配を見せない。全く酷い風邪にかかったものだと思う。ぐわん、ぐわんと揺れる視界から逃れようと強く瞼を閉じ、込み上がってくる吐き気を押さえ込む。  ここまで酷い風邪を引いたのはいつ振りだろう。大学時代? それとももっと遡らないといけない? 小さな時は母が親身に看病してくれたものだったが、今は遠い国境を越えた先に彼女は住んでいる。  ――寒い。  羽毛布団を首まで被っているのに寒くて仕方ない。あの白い道にまだいるようだ。降りしきる雪が、誰かの造り出した足跡の道を覆い尽くそうとしている。  家の広さが、ダブルベッドの広さが、身に沁みる。  一人で暮らすにはあまりに広い家。家族三人がこれから思い出を残していく予定だった家。  寂しい。心が震えるようだった。  ああ、未練だ、と思う。  この広い家を捨てないのは、未練があるからだ。  思い描いてきた家族像。それを失った事への未練が、クカをこの家に固執させる。いまこうして横たわるダブルベッドだってそうだ。もう二人で眠ることはないだろうに、このベッドをクカは捨てられない。  愛した妻がいて、子供がいて、自分の家があって、犬か猫を飼って、そうして老いていく。それが理想の姿だと、信じて疑わなかった。 (そうだ、ペアの言うとおりだ)  まだ三年と言って、何も前に出ようとしない。  未練だ。妻へのものじゃない、家族への未練がクカの未来を閉ざしている。事故に遭わなければ良かったのだろうか。迫り来る車から家族を守ろうと二人を庇ったあの瞬間。いっそあのまま死んでしまっていたならば良かったのだろうか。  いや。  そもそも。  夫婦生活は冷えつつあったのだ。  事故は引き金を引くきっかけに過ぎなかったのだから。  色んな考えが頭に浮かぶ。とりとめの無い、答えの無い考えが、熱に浮かされた頭の中に浮かんでは消えていく。  いつもは仕事で頭の中身をすりつぶしているというのに、考える時間があるといつもそうだ。熱が余計クカを感傷的に仕立て上げているのかもしれないけれども。 「ピート」  マルクの声がする。  帰した筈なのに、どうしてか彼の声がする。  思えば今は何時だろう。  どれくらいの時が経った? 「ピート、起きた方がいいんじゃないか」  今度は耳元で、はっきりと聞こえた。  クカはそこで目を覚ました。

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