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第10話
はっとして飛び起きれば、そこには赤らんだ鼻先がある。
彼の背後、寝室の窓の向こう側はすっかり日が暮れていた。
「魘されてたよ」
「……マルク? 俺は、休みだって……」
寝汗は酷く、寝間着は汗でびっしょりと濡れていた。シーツも薄らと湿っているようにも思える。酷く魘されていたようだ。
クカはぐにゃりと歪む視界で心配そうにこちらを見やるマルクを捉えると、じっと見つめた。
さっきまで外にいたらしい彼は少しばかり冷気を携えている。黒い髪と暖かそうなダウンジャケットには僅かに白い雪が付着していて、それもこの部屋の暖房ですぐに溶けていった。彼の赤らんだ手が抱えるのは、同じく僅かに雪の付着した紙袋。どこかで買い物をしてきた様子だった。
「ああ、休みでいいよ」
オレが好きにやっているんだし、とマルクは荷物を下ろしながらそんなことを続けた。紙袋から栄養ドリンク剤が三つほど入った箱を取り出すと、手早く箱からドリンクを引っ張り出した。
「ほら、これ飲むといい。熱出たときは薬と栄養ドリンクと食べやすいゼリーって相場が決まってる。後、喉に聞く飴とか……色々目についたの買ってきたし」
ドリンクの封を切りベッドサイドにそっと置くと、マルクは紙袋から食べやすそうな小ぶりのゼリーや、飲料などを広げていった。そうして粗方広げると、マルクは少し伺うようにしてクカを見た。
「どう? 食べれそうか? 正直ピートの好みってのがいまいち分かんなくってさ、苦手の奴だったら悪いけど」
せめてドリンクだけは飲んだ方がいいと思う、そう言って一度ベッド脇から離れると、彼はそろりとドアの方へと移動した。
「オレは今から溜まった洗いモン始末するからさ。それまでに食べてくれよ」
流し目にこちらを見やり、マルクはそのまま下の階へと姿を消した。
それから彼が再びこの部屋へと訪れるまでさほど時間は必要としなかったように思える。高い熱がクカの体感時間を歪めているせいかもしれないが。彼が持ち込んだ栄養ドリンクを飲んで、ぴっちりと閉じたゼリーの封を開けるのに悪戦苦闘している内に、マルクは再びこの寝室に足を踏み入れた。
「あー、ちゃんと開けてから行けばよかったな」
クカの手の平の上ですっかり草臥れたゼリーの蓋を目に留めると、すぐに蓋を外してくれた。ビニールの蓋に付着した果汁が彼の指を汚し、マルクはそのまま赤い舌を指先に走らせた。
「ん、中々美味しいじゃん、このゼリー。……っと、それじゃ、オレ帰るわ。次は来週の……月曜日かな? それまでにか風邪治してくれよ。ピートが稼げないと、オレの給料分も出ないしさ」
冗談めかして笑うマルクが、床に置いたリュックサックへと手を伸ばす。
帰ってしまう。マルクがいなくなってしまう。
またこの広い寝室で、一人ぼっちで、眠って、また自己嫌悪と憐憫の間に落ち込んで、潰されそうになって魘される。
そう考えた刹那、クカは堪らずマルクの名を呼んでいた。
「……マルク」
「お、ちょっとは声も良くなったんじゃ無いか? オレの甲斐甲斐しい看病のおかげだな。飲み物買ってきただけだけど。あ、今日の分は別にオレが好きにやったことだから気にしなくていい……」
「いや、払うよ。特別に料金を増やすから……」
けほ、と一つ咳払い。
薬で僅かに楽になった喉が、次の言葉を紡ぐことを恥ずかしがっている。クカは一度マルクから視線を外すと、それから躊躇うように何も無い虚空を見やっては再び彼の方を見つめた。マルクは怪訝そうに眉根を寄せてクカを見下ろしている。
「……もう少しここにいてくれないか。……その、寂しいんだ」
黒曜石の瞳がふと丸くなるのを視界の端に捉えつつ、ゆっくりとクカは続けた。囁くように、独りごちるように。
「この家は俺には広すぎるから」
その台詞は静かな寝室内に消えていった。
窓枠には雪が積もりつつある。きっと明日は沢山の電車がダイヤを乱すことになるだろう。
分かった。
そのマルクの一言が聞こえるまでの時間はあまりに長く感じられた。
「今日はバーのバイトもないし、夜は暇だからさ」
「ありがとう、君は優しいね。……こんな風邪引きの我が儘聞いてくれて」
まるで子供みたいだとクカは思った。
風邪を引いて、急に自分が矮小な存在に思えて、どうしてか十歳以上も年下の青年に甘えようとしている。彼を弟のように感じていたと以前思ったが、実際は逆だったのかもしれない。
マルクはにへらと若干だらしなく笑って見せると、寝室の隅にぽつんと置いてある電灯を変える時にだけ使う折りたたみ椅子に腰掛けた。深いネイビーのジーンズに包まれた長い足を窮屈そうに組んでは、肩を竦ませてみせる。
だってさ、と口にする彼の声は今日一番に明るく聞こえた。
「良い子にしてないとさ、契約切られても困るだろ? ここの仕事ほど楽で楽しいところもないし。オレの収入で一番なんだぜ? このアルバイト」
その言葉が嘘だとクカにはすぐに分かったけれど、そのことに触れるほどクカは愚かではない。
君、ゲイバーでストリッパーやっていたよね?
なんて、訊ねる馬鹿はどこにいるというのだろう。
「……大学との両立は辛くない?」
全てを知らないふりをして、だけども本当に訊きたいことは訊いておく。ハウスキーパーのアルバイトに、夜のバーのアルバイト、その他にも幾つか。どれほどの負担が彼にのし掛かっているのだろうか。
クカの問いに、マルクはことんと首を傾げつつ答える。どうしてそんな事を訊いてきたのかいまいち理由が分からないのだろう。
「いや? まあ、大変だけどさ。アルバイトたくさん掛け持ちしているし。課題は沢山あるし。でも将来の為だ。やりたいことの為の投資ってやつだな」
「すまないね、忙しいのに、引き留めちゃって」
「いや、そういう意味で言った訳じゃないんだ。今日はホントに暇で……」
「分かってるよ。冗談さ」
少し困った様子で眉を寄せるマルクは、年相応の青年のように映った。そんな彼から天井へと視線を向け、クカはまた一つ咳をした。喉はまだまだ本調子じゃない。やや冷えた鼻先を布団に埋めつつ、クカはゆっくりと、単語をぽつりぽつりと零すように話し始めた。
マルクから視線を背けたのは、少しばかり気恥ずかしかったせいだろう。
「……俺も君が来てくれてとても助かってる。一人だったらきっと、まだ三年前のままでいただろうと思う。ゴミと瓶に囲まれて、真っ暗な気持ちでこの家にいたんだろうってね」
クカは熱に魘されて見た夢を思い起こしていた。
やっと手に入れた理想の家庭が、みるみる内に音を立てて消えていくあの喪失感と虚無感。三年という時を経て、胸に空いた風穴は僅かながらも埋まりつつあると信じていたのだけども。完全に埋まる日は
いつやってくるのだろうか。
(本当にペアの言う通りになりそうだ)
五年後も、クカはこの喪失感に苛まされ続けているかもしれない。
「……オレはピートの昔の話ってあんまり良く知らないけど、まあ辛かったんだってのは簡単に想像つくよ。なんたってあの部屋は……」
「……酷かっただろう?」
クカは自嘲の笑みをやつれた顔に浮かべた。
三年前に遭ったあの大事故。
奇跡的に生還したクカだったが、妻は身を呈して庇った夫との離婚を望んだ。確固とした理由は、結局妻から聞き出すことは出来なかった。
だけどもクカはこう思った。
塵だ、と。
塵が全てを覆い隠してしまったのだと。
それは具体的な名前を持たない。結婚生活への細々とした不満や、あらゆる誘惑、そういった――負の感情が塵となってクカの家へと降り注いだ。塵は思い描いた輝かしい未来を、色あせ、薄汚れたものへと変貌させてしまったのだ。塵を取り除く機会は、これまでの結婚生活で幾度となくあっただろう。だけども、クカはその機会を逃してしまったのだ。
長年望んだ我が子が生まれた頃には、塵は、かつて夫婦の絆をすっかり覆い尽くしてしまっていた。いってしまえば、彼女とクカの夫婦関係は破綻しつつあった。
クカはその事実に、気づいていたのである。
それでも、だ。
それでも、事故と、障害が残るかも知れないという未来への恐怖と、血と肉を分けた我が子との別れはクカの心を容易く砕いた。
三年前、妻と正式に離婚が決定した後、クカはしばらくの間酷く落ち込み、手につけられない程に荒れていた。
(……あの時期のことを思い出すのは気が滅入る)
まるで灰の中に閉じ込められたかのような圧迫感と閉塞感。
酒に溺れ、塞ぎ込んだ時期。
精神科にかかっていたなら、軽度から中度の抑鬱状態にあると診断を下していたことだろう。事故後まもなくのことなので、あまり医者にかかりたくなく、精神科にはついぞ足を運ぶことはなかったが。
気づけば部屋は荒れ放題。
離婚後の広い空間の中に、事故後間もなく放り出され、心身ともに憔悴したクカに出来ることなど何もない。リハビリに片道一時間近くかかる病院へと通院しなくてはいけないし、会社は早く職場復帰をしてくれとの連絡を毎日のように入れてくる。
そんな状態でまともな家事が出来る筈も無い。
散乱する酒瓶の中で眠る日々が何ヶ月も続いた先、一条の光がクカに差し込んだのが、事故と離婚という二つの壁に直面した日から、おおよそ一年後のことである。
様子がおかしいという理由から、同僚のバトシュトゥバーがクカ邸へと無理矢理押し入ってきたのだ。彼は酷い有様のクカの顔面をおもむろに殴りつけると、無言で部屋を片付け始めたのだ。頭の中でこのままではいけないと思っていたのもある。バトシュトゥバーの一振りの拳がクカを再び社会へと復帰させる契機となったのだ。
バトシュトゥバーが嫌に過保護なのは、クカのそんな過去を知ってのことだ。また、再び、あの酒浸りの日々に逆戻りするのではないかと危惧をして。
「……出来れば男の人がいいって注文をつけたのはあの部屋を何とかして欲しかったからなんだ。俺の負の遺産を清算したくてね。ああ、もう、二度と酒には溺れまいと誓ったよ」
「あの量を運び出すのには骨が折れたよ。まさか、あそこまで……その、ほら、まるで……」
「ゴミ屋敷?」
「そこまではいかないけどさ、まあ、凄かったよ。ビックリしたしな。ビール瓶踏んですっころんだのは忘れられない」
ああそんな事もあったか。
初めてマルクを部屋に案内して、バトシュトゥバーと共にゴミだらけの部屋を片付けたのは良く覚えている。酒瓶を集めて回り、トラックに詰め込んで、集積所へと運んだのだ。その途中起きたことは、彼が言ったとおり。床に転がる酒瓶の一つを踏んだマルクは、抱えたゴミ袋の中身と共にひっくり返ったのだ。
バトシュトゥバーは最初、女の家事代行にすればいいと言ったが、その提案を断って良かったとクカは強く思ったのをよく覚えている。女の子にあんな力仕事は向かないし、何より、少女から一段大人の階段を上ったばかりの年若い女性にあの酒とゴミの臭いが漂う部屋を見られたくなかったのである。
それに、クカは依頼した相手がマルクで良かったと、今、まさにしみじみとそう思っているのである。あの時、このクカ邸に足を運んだ人物が、彼で無かったなら、きっとクカはミートボール・トマトスープの美味しさを知ることさえなかったし、今日も一人寂しくベッドの中で熱に魘されていたことだろう。
「実はね」
と、クカは途切れた話題に新しい話を投げ込んだ。
ん、と返ってくるのは、思い出話に明るくなったマルクの声。
「昨日、君を見たんだ」
その言葉にマルクは目を丸くさせた。
「オレを? どこで?」
「最寄りの地下鉄で二駅ほど西に行った街で、君を見かけたよ。雪の中、歩いてる君をね。あんな雪の中、風邪でもひきそうだなって思って……あはは、結局、風邪を引いたのは俺だったんだけど」
マルクはクカの言った日のことを思い起こそうとしているようだった。黒い瞳をぐりぐりとあちらこちらへと向けてしばらく、やっと思い出したらしい。はっと目を開いて、ああ、あそこね、と口にする。
「一番雪が酷かった時だ」
「そう、雪が酷かった時だ。楽しそうに男の人と一緒にいたよね。彼は友達なの?」
なんとなしにクカは訊ねた。
きっとマルクが口にする言葉は、本心のそれとは違うだろうと分かっていながら。
ああ、とマルクが答える。
「……エディンは友達さ」
「そう、彼は、エディンって言うんだね。東欧の出身かな。俺も東欧出身だからかな。どこかで聞いたような気がする」
「ああ、そうだったかな? たぶん、東欧だったと思う。うん」
それからマルクの友人の話はそこで終わり、クカはマルクと簡単な会話を交わした。一年程の付き合いだったが、思えばこうしてじっくり会話したことはあまり無かったように思える。
時計の針がゆっくりと進んでおり、気づけばもうすっかり夜は更けていた。流石にこれ以上彼を拘束するのはいけないと、クカは熱に浮かされた体に鞭打って起き上がると、パイプ椅子に腰掛けるマルクに微笑みかけた。今日はありがとう、と。
「時計を見てびっくりしたよ。あっという間に時間は経つね。もう遅いから、早く帰った方がいい。雪が積もって来てるかもしれないし」
俺の我が儘に付き合ってくれてありがとう、と更に重ねて礼を言った。
「言っただろ? 今日は暇だからさ、別にどれだけ遅くなってもいいんだよ。でも雇い主が帰れっていうんなら、従うしかないよな」
「マルク、気をつけて」
「ありがとうピート。早く風邪治してくれよ?」
「ああ、マルクのおかげですぐに良くなりそうだ」
「それじゃあ、また今度、月曜日に」
リュックサックを背負ったマルクは、今度こそクカ邸を後にした。
再び静寂がクカを包み込む。
だけども、昼間の時よりも、蝕むような孤独感は感じられなかった。
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