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第11話

 家に帰るのはあまり気が進まない。  安アパート。どこぞの中華料理屋が放置しているゴミ箱の臭いが、どこからともなく漂ってくる。  あまりいい物件とは言えないが、まあ、その分賃料も格安だ。  ここがマルク・クラースが暮らす城だった。もし、一般家庭の娘がここを大学へ行くための下宿先に選んだとしたら、その両親は必ず娘の愚かな選択を無理矢理にでも止めたことだろう。アパートの古さもその地域の治安の悪さも加味した上で、だ。  マルクの両親は息子が何という名前の大学のどんな学部に通っているかさえ把握していないような連中だ。止めることはおろか、その地域がどんな場所さえ理解していないのだろう。放置放任主義の彼らしい。 「遅かったじゃないか」  施錠した筈のドアに鍵がかかっていなかった時点で、彼がいるであろうことは簡単に予測がついた。  ドアを開いたマルクを出迎えるのは、見慣れた男の少し赤らんだ顔だ。 「色々あったんだよ」 「何だ、その色々って」 「別にいいだろ何だって」  彼はエディン・ルリッチ。  マルクの〝友人〟だ。少し、深い間柄の、という修飾語がつくが。  エディンはマルクのアルバイト先の一つであるゲイバーでバーテンダーをしている。マルクより四つほど年上で、あの店を紹介したのも彼である。  エディンは少し酔っているらしく、麦とアルコールの臭いを僅かに漂わせながら、家事代行の仕事から帰ってきたばかりのマルクに絡んでくる。腕を回し、頬に鼻先を寄せてくる。  マルクはうっとうしく思う気持ちを態度にそのまま乗せて、やや乱暴に腕を剥がすとそのまま狭いワンルームの室内へと進んでいった。エディンが来ると、大抵部屋は酷く散らかされた。彼は片付けるという言葉を知らないのだ。  愛用の二人掛けのソファーには、スナック菓子の包みやビールの空き瓶が転がっている。食べ散らかして、そのままにしていたようだ。そのゴミを側のテーブルの上に放ると、マルクはそこに深く腰掛けた。この雪の中、ドラッグストアまで必死に歩いたのだ、体はいつもより疲れ果てていた。  だけどもマルクに休んでいる暇はない。 「……ってか、なんでアンタがいるんだよ。今日はバーの仕事あるんじゃねえの」  ソファーの横、脱いだ衣類や散らかった書類を纏める為にかったビニール紐が絡まり合う騒然とした山。その下に隠されていたリュックサックから専行学部の課題を引っ張り出すと、マルクは吸い殻が押し込まれた空き缶の横にそれを広げた。課題の期限は来週の頭、月曜日だ。早く終わらせなくてはならない。だのに、邪魔になる存在がすぐそこにいる。  マルクは忌々しげにエディンを見上げた。癖のついたダークブロンド。厳つい顔立ちをしたバーテンダーは、片手にまだ中身の残ったビール瓶を持ちながらにへらとだらしのない笑みを浮かべてみせた。 「……オーナーの気が変わって休みになったんだよ。俺からしたら万々歳だったんだがな。マルクはそう思っていないらしい」  そう言っては、エディンはビールをちびりと飲んだ。  マルクは眉を顰めると、そのままアルコールに毒された〝友人〟から課題へと視線を落とした。彼に構っている時間はないが、このわき出てくる言葉を口にせずにはいられなかった。 「……ここはオレの部屋だぞ。それにそれはオレの酒だ。勝手に飲み食いしやがって」 「なんだ出てけっていうのか? 冷たいな、恋人に言う言葉かよ」  エディンがどすんとソファーに腰掛けた、かと思えば、思いっきりもたれかかってきた。マルクが自分の為だけに買ったビール。雇い主が好んで飲むその銘柄独特の、芳醇な麦の匂いが強く香った。 「いつからお前の恋人になったんだよ、エディン」 「いつからだったかな? 五、六年前だった?」 「馬鹿言え。アンタと恋人なんぞになった覚えはねえよ」 「体の相性は抜群だけどな」  そう言ってもたれかかるエディンを押しのけて、マルクは深く溜息をついた。  行き場のない自分にあの仕事を紹介して、この部屋を借りる為の名義を貸してくれたことは感謝している。だけども、この男との関係は彼の言うほど深くはない。ただ夜を共にする知り合いの内の一人に過ぎなかった。 「……なぁ」  だらりとソファーにもたれながらエディンはそう口を開く。  まだ課題に手をつけたばかりだというのに、彼はお構いなしだった。いつもそうだ。エディンにはマルクの都合というものは存在しない。特に酒に侵された彼の脳は配慮という単語を存在しないものと認識する。  彼は生暖かい吐息を首筋に吹き付けて、いつも夜そうしたように唇を寄せた。 「ヤろうぜ」  聞き慣れた単語だ。  そう耳元で囁くエディンの声が耳朶を叩き、先ほどまで酒の瓶を握りしめていた手はマルクの体を弄るように蠢いた。そんな〝友人〟の手を強く掴むと、マルクは腹の内で煮えたぎる苛立ちをそのままぶつけるように乱暴に撥ねのけた。  いつもそうだ。  酒に酔ってはマルクの邪魔ばかり。 「……ふざけんな、見て分からねえか? 今から課題やるんだよ。早く終わらせねえと……また教授に何か言われても困るしな」  大学に通い詰め、あの高額な学費を払い続けるのは難しい。  特に親の理解を得られなかったマルクのような孤独な学生は、死にものぐるいで働き、学ばなくてはいけない。  最近、仕事の方が忙しく、提出物や講義の出席もおろそかになりがちだった。大学側はマルクのやや特殊な家庭環境を把握しているので、少しは大目に見てくれてはいるが、しかし、最高水準の教育を受けるにはそれなりの態度で赴かなくてはならない。少なくとも、この課題は確実に月曜の頭までには終わらせなくてはいけなかった。大学の冬休みにはとうに突入していたというのに、全く寛大な教授である。提出さえすれば、単位をくれるというのだから。  だというのに、この男はマルクの気持ちなんて一ミリも知ろうとはせずに、体を弄ってくる。タイトなジーンズ越しに腿を擦り、パーカーの下に手を差し入れてきた。 「いいだろ。最近ご無沙汰だったじゃねえか。ああ、お前は客と寝てるからアレだろうが」 「いい加減にしろよ。あんまり邪魔ばかりするなら本気で追い出すからな。外が大雪だろうが関係なくな」  先ほど、この安アパートについたまさにその時、雪が降り始めたところだった。スマートフォンで調べた一週間の天気予報では、今晩が今冬最大の寒さになるという。雪は過去数十年で最大の降雪量を記録するかもしれないとのことだ。そんな寒空の下で一晩過ごせるはずもない。  エディンは顔の広い男だ。例えマルクが怒り、外に追い出されたとしても一晩泊めてくれる友人は少なくない筈だが、流石にマルクの剣幕に気圧されたようだ。マルクの足を撫でていたその手を引き、体の重心をマルクにでなくソファーの背もたれへと傾ける。 「ああ、分かったよ。分かった。そう怒るな」  そう言ってテーブルの上に置いた、まだ半ばほど残っているビールへと手を伸ばす。その瓶を彩るラベルは、マルクがこの二年ほどですっかり見慣れたチェコ産のものだ。マルクの雇い主であるクカが好み、家事代行の買い出しの度に購入してきた銘柄とまるっきり同じものだった。  課題に必死になるマルクを横目に、エディンはまじまじとそのラベルを眺めていた。一日の終わりに、僅かに生え始めた無精髭を撫でながら。 「チェコ産ねぇ……」  そう呟いて、ふと訊ねるように独りごちる。 「ビールってのはそんなに旨いもんか?」  全くあれだけ人様の酒を飲んでおいてその言い草はないだろうとマルクは内心思っていたが、彼が呟くその問いには答えなかった。そもそもエディンも答えを求めてはいないのだろう。  残りの酒を呷るとエディンはそれを飲み干していった。 「まあ、俺はビールよりラキヤのが好きだけど」  ラキヤは東欧の蒸留酒の名で、果実から作られている。エディンは東欧の出身で、そのせいか度数の高い蒸留酒を好んで飲んでいた。彼が持ち込んだ酒は部屋に幾つか置いてある。そのほとんどに口をつけたことはなかったが。  空き瓶片手にソファーから立ち上がり、玄関口の側にあるキッチンへとおもむろに向かうエディン。彼の目的は本人が口にしたラキヤがなみなみと入ったボトルだろう。マルクの想像通り、しばらくして現れたエディンの手には、茶褐色の液体が入ったラキヤのボトルとグラスがある。そうして再びマルクの横に腰掛けると、ちびりとその高濃度アルコールを飲み始めた。 「まだ飲む気か? アルコールの塊みたいな酒のどこがいいんだ」 「いいだろ? ウォッカよりは上品な酒だ」  そう言ってまた舐めるように酒を飲み、酒の色に染まった目でマルクを見る。  ラキヤの度数の高さはその臭いからよく分かる。あの小さなグラスに注がれているアルコールは、既に酒に酔っていたエディンを更なる厄介者に仕立て上げるには十分すぎる量だった。 「全く、そうは見えねえよな」 「何がだ?」 「こうしてみると今のお前はただの学生だ」 「学生だろうよ。クソみたいな人生から少しでも脱却するために頑張ってる学生さ。お前とは違う」  隣で高濃度のアルコール飲料を飲み続ける〝友人〟に目もくれずマルクは冷たく返した。  バーの連中とは違うし、あんなバーに足を運ぶ馬鹿な連中とも違う。いずれまともな職に就くことが出来たなら、この十数年の思い出は記憶の片隅に留めることもなく忘却の彼方に放り捨てることだろう。隣の〝友人〟も含めて。 「今日は嫌に辛辣だな」 「……うるせえ。しばらく黙って酒飲んでろ。俺は課題を終わらせるからな」  マルクが放ったその言葉と共に、場は沈黙に包まれた。  教授から与えられた課題をこなすため、時たまマルクがスマートフォンやノートパソコンを操作する音や、書類を引っかき回す乾いた音ばかりが冷たい風の吹き込む一室に響いていた。  エディンは人が変わったように黙りこくり、ひたすらにボトルのラキヤを減らすことに熱心になっていた。ボトルの酒がたゆたう音が、嫌に大きく聞こえ、マルクはたまらずイヤフォンを耳に取り付けた。流行のバンドの、特に好きでも嫌いでもないメロディで鼓膜を覆い、 課題をこなすことだけに集中する。  それからしばらく、時間として数十分ほどは平穏だった。  もぞりと蠢く何かの気配を感じるまでは。 「……おい、何度も言わせんなよ。止めろって言ってるだろ」  再び手を伸ばしてきたエディンに呆れた視線を向ければ、すっかり赤くなった顔で彼はマルクをじっと見上げていた。酒の酔いがすっかり回った二つの目は、膨れた毛細血管の一つ一つが分かる程に充血していた。  エディンの手がマルクのイヤフォンをむしり取り、彼の低く、それでいて上擦った声が直接的に鼓膜を揺さぶった。 「何だよ、お預け食らわせる気か? 黙ってやったろ? しばらくはさ。その間に終わらせられないお前が悪いってことだ」 「おい……! いい加減に……!」  そう口走った刹那、ぐ、っと強い圧迫感がマルクの喉を締め付けた。

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