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第12話

 エディンの大きな手のひらが、マルクの喉を圧迫している。絞める程とは言わないが、だけども十分に脅威に思えるその力。エディンは酔っている。だから少しその手が恐ろしく思えた。  なあ、と彼は呼びかける。力を込めたその手で、マルクをソファーの背もたれに押しつけながら。 「……仕事終わりの〝おこぼれ〟に預かるのもいいけど、たまには素面のお前ともヤりてえんだよ」  ふうっと鼻先を彼の吐息が掠める。甘い、蒸留酒の匂いがする。果実の甘ったるくて熱い匂いが。  気圧されるマルクを尻目に、それとも、とエディンは続ける。 「他の男ともう寝てきたか? マルク、お前が入れ込んでる、あのピートって言ったっけ? そいつとさ」  そう言ってはエディンが笑う。それは酷く嫌らしい笑みだった。マルクを蔑むその視線がマルクを激しく苛立たせた。  喉を掴むその手に爪が食い込ませ、マルクは低く唸るように返した。 「……もう一度言ってみろ、その口縫い付けてやるからな」  ピート。  ペトル・クカ。  マルクの雇い主であり、そして、マルクが想いを寄せる人物だ。  真面目で誠実で、それでいてどこか危うい影がある。そんな彼に惹かれたのは、初めて顔を合わせたあの日だった。奨学金を限界まで借り入れている学生に向けて大学側が紹介する優良アルバイトの内の一つ、それがあのハウスキーパーのアルバイトだった。週に二、三度。雇い主の家へ赴き、依頼された家事をこなす、それだけの仕事だと思っていた。  裏のバイトだけでもそれなりに稼げていたが、あの大学構内に貼り出されていたアルバイトに応募したのは、エディンやバーの客とは違う、まともな人間と触れ合いたかったからだ。まさか、その雇い主の男に、ここまで心奪われるとは思いもしなかったのだけども。 (やあ、これからよろしく頼むよ。あんまりにも散らかっているから、少し見せるのは恥ずかしいんだけどさ……)  気恥ずかしそうに笑いながら、マルクにあのこじんまりとした一軒家の中を紹介してくれたクカ。騒然とした室内の有様に、マルクは最初酷く驚いたのを覚えている。彼の物腰からは到底想像できない程に荒れ果てていたのだ。聞けば妻と離婚した後、仕事で忙しく、家のことに手が回らなかったのだという。照れた様子で話す彼に、エディンやバーの客には抱かないような、明るい感情を抱いていることに気づいた時、マルクは自分が酷く恥ずかしい存在に思えた。なんせ、自分は、彼とはあまりにかけ離れた存在だったから。  クカは至極まともな男だった。どうして彼が離婚してしまったのか、マルク自身には想像がつかない程に出来た人。まっとうな仕事に就き、失いこそはしたが家庭を持っていた。月末に娘との面会を楽しみにする、そんな理想の父親のような彼に、マルクはどうしようにもなく彼に惹かれている―― 「はっ、マジで好きなわけ? そいつ既婚者なんだろ」  マルクの激しい怒りを含んだその視線をエディンは笑い飛ばすように鼻を鳴らした。 「……だったんだ。今はフリーだ」 「フリー? だとしても、だ。お前みたいなビッチのどこを好きになるんだよ。ほとんど毎晩名前も知らねえ男のチンポ銜え込んでアヘってるストリッパーを、ガキまでこさえたストレートの男がさ」  彼の言葉は真実だ。嘘偽りはどこにもない。どこまでも真実で、だからマルクの心を深く抉っていく。  クカがこちら側の人間じゃないことは知っている。  でなくては異性と結婚し、家庭を持つことなど出来ないだろう。あの空虚な家に住まい、かつての思い出に浸りながら、どこか暗い毎日を過ごしている。彼がどんな経緯で家族を失ったかはマルクは知らない。だけども、マルクが作った夕食を、空しい心を取り繕うように笑いながら食べる彼を見て、何か思う所がない訳ではない。自分は、おそらく、彼の手からこぼれ落ちたものに打ち勝つことは不可能だ。  それに、そうだろう。  雪の中見た光景を忘れた訳じゃないだろう。彼はマルクを見たと言ったが、逆にマルクは彼を見た。雪降りしきる中、鼻先を赤くして年若い女と並んで歩くあの姿。  彼は紛う事なきストレートだ。   分かっている。  分かってるつもりだ。  だけども、今日は少し期待してしまった。  風邪を引いて、弱った彼を見て、早く帰れと言われたけれど、彼の心に少しでも入り込めたらと、つい、そんな哀れな考えが浮かんで、気づいた時には近くのドラッグストアに足を運んでいた。雪が降って、風はどこまでも冷たかったけれど。  今日は話をした。  他愛のない、下らない日常的な会話だった。それだけで十分だった。それなのに、この男はマルクの傷口に好き好んで塩を塗り込んでくる。 「ほら、飲もうぜ? ストレートのラキヤは、お前の好きなストレートよりずっとイイぜ?」  エディンが手に持つ小ぶりなグラスの中身を揺らせてみせた。  茶褐色のアルコールの塊が、どろりと揺れている。彼はその小さなグラスに注がれたラキヤを口に流し込むと、そのままマルクに口付けた。  ぬるりと唇を割って侵入する舌。その肉厚な舌が纏う、その熱っぽい酒の味が味蕾と粘液越しに脳天を刺激する。甘い匂いがした。果実とアルコールとどこか青臭さの残るラキアの味と、エディンの舌の感触。 (熱っ……)  度数四〇。その酒の強さは数字を聞くだけで分かるだろう。  酒が触れただけで、口内の粘膜が焼け付くような熱を持つ。エディンの舌が舌に絡みつく。酒と唾液と粘膜を混ぜ合わせるように擦りつけて、口に含んだラキヤを喉に流し込む。  思わず噎せてしまいそうになる。アルコールに浸る舌が上顎の凹凸をなぞるだけで、背筋をなぞるように熱が走って行った。  唇が離れた時、ねっとりとした茶褐色の色混じりの唾液がでろりと下がっているのが目に入った。見苦しくて、どこか惹かれるその粘液の糸。 「……っ、一回だけだからな」  頬に血が登るのが分かる。  酒と、キスで、愚かにも反応した体の浅ましさに震えながら、マルクはそっとそう口にする。  その言葉に気を良くしたらしいエディンが、同じく酒に上気した頬を歪ませては笑う。羽織る上着を脱ぎながら。 「乗り気になってくれて嬉しいぜ」 「……一回だ。それでマジで終わりだからな。分かったな」 「ああ、分かったよ。一回きりだ」  エディンの手がマルクの服に伸びる。シャツの合わせ目を乱暴に外し、白い肌着を鎖骨まで捲り上げた。アルコールで火照った指が、マルクの乳首を貫通するリング状のピアスに引っかかる。ぐっと力を入れて引かれると、鋭い痛みと甘い感覚がマルクの脳天まで駈け抜ける。 「いっ……!」  思わず声が漏れ出た。  この感覚だけには抗えない。  指の先まで調教されたこの体は、あまりに快楽に弱すぎた。痛みさえ、悦びと感じるほどに。  声を押し殺そうと歯を食いしばるマルクを嘲笑うように鼻を鳴らし、エディンはでろりと赤い舌をぷくりと充血した乳首に這わせた。アルコールですっかり熱を持った舌の柔らかさと、乳頭を貫通したバーベル状のピアスが擦れる硬い感触。 「耳と舌のピアスは外しても、こっちはつけっぱなしで行くんだな」 「穴が埋まるのが嫌だっ、から……」 「埋まったらまた空けりゃいいだろ?」 「……痛いのが嫌いだから、そうしてるんだ」 「痛いのが好きなマゾ野郎のくせに……なぁ、そうだろ?」  鮮烈な痛みがマルクを襲う。  エディンの歯が乳首に立てられたのだ。白金のピアスと、エディンの歯に挟まれた皮膚は目の端に火花を散らせる程の痛みを訴えた。 「……ひぁ、痛っ!」 「ほら、好きなんじゃねえか。舌にもチンポにも入れてるくせに、何自分は違うみたいなこと言ってんだ?」 「全部お前が勝手に空けたんだろっ……! オレの意識がぶっ飛んでるときに」 「そうだったか? 忘れたよ、昔のことなんて」  乳首も舌もペニスに空けたピアスも、すべてこの男がやったものだ。最初は耳に空けられて、次は舌だった。ボディピアスも本当は空けるつもりなんて毛ほどもなかった。だけども、コイツが、この男が、知り合いの医者の手を借りて、泥酔したマルクに幾つもピアスを空けたのだ。 「……何だ、嫌がってる割には勃起してるじゃねえか」  ちろりと舌なめずりし、タイトなジーンズの下、もぞりと鎌首をもたげ始めたペニスをさすりながらエディンは笑う。 「お前の好きなピートってのは、お前がこんなビッチだって知ったらどう思うかな?」 「……っ、知るかよクズ野郎」 「その憎まれ口叩くお前が、喘ぎまくるってんだから、興奮するよな」 「…………さっさとヤれよ。早く終わらせて、課題やらねえと……」  マルクはエディンから顔を背けると、手の甲を口に押しつけた。そうして深く目を閉じて、早く事が終わることを望んだ。閉じられた視界。その中でマルクは一人身構えていた。  ふと皮膚の上を伝う、ひやりと冷たく、でろりとしたこの感触はローションのものだろう。スラックスと下着を脱ぎ捨てて、剥き出しになった下腹部にこれでもかとたっぷり振り掛けられて、ああ後始末が面倒になると頭の片隅で思う。全部終わったら、ソファーのカバーを代えないといけないな――  そんな事を考えていると、アナルにぬるりと侵入する硬い何かの感触がマルクを襲った。腸壁を擦り、襞を掻くように蠢くそれは、エディンの指なのだろうと思う。すっかり男とのセックスに慣れたアナルは簡単に広がり、異物の侵入を容易く許し、性感を貪ろうと蠕動する。まるで女性器のように奥へ奥へと指先を誘って、男のGスポットとも呼べる前立腺を刺激してくれと懇願する。  熱がマルクの体内を駆け巡る。これから待ち受けている快楽の嵐に体が勝手に期待を膨らませて、脳内物質が分泌されていく。熱い、熱い。体が熱く火照って疼いている。もっと欲しい。もっと直接的な刺激が欲しい。もっと太くて、逞しくて、マルクの中にある男としての自尊心を打ち砕く、そんなペニスが欲しい――浅ましい体はそんなことを願って、自身の使い物にならないペニスからだらりと涎を垂らすのだった。  体がペニスを求めていた。  無意味で、非生産的なセックスを、ただただ性欲の赴くがままに貪りたい、と願ってやまない。  そんなマルクの思いを感じたのか、エディンの指が引き抜かれる。だらしないアナルが、もっと大きいのが欲しいと強請るように口を収縮させている。だけども思いとは裏腹に、再びアナルへと押し込まれたのは無骨で節くれ立ったエディンの指だった。三本の指が一気に根元までねじ込まれて、くの字型に曲げられた指先はぐりゅりとマルクの前立腺を引っ掻いた。 「いっ……ああぁっぁっあああ!?」  その熱、その感覚。  望んでいた刺激よりも、もっと直接的で、激しい熱がマルクに襲いかかる。  声が漏れる。  違う、何かが違う。指での愛撫にしてはあまりに刺激が強すぎる。  まるで溶鉱炉になった気分だ。熱が、生まれる熱が、いつもと違う。だらりと先走り液を吐き出すペニスが、性器と化したアナルが、直腸が異常な程の熱を持っている。  指が蠢き、指の腹で腸壁を撫でる、それだけで、今にも達してしまいそうな快感がマルクの中を駆け巡った。   「……あっあぁっ! ん、ぁエディンぅ……、お前、何しっ……てぇええ……! ……あああああ!?」 「マグロ相手じゃつまらねえと思ってよ。お前の大好きな前立腺に擦りつけてやったんだ」  ずるりとアナルから指を引き抜いて、エディンは歪ませた緑の視線をテーブルに向けた。小さなビニールの袋に収まる白い粉が無造作に置かれていた。 「ふざけんなっ……あっつ……くそっ!」 「鼻よりケツから入れた方が早くぶっ飛ぶんだってな?」 「あっ……! あつっ、いっ! あぁぁぁっ、いやだ、あつぃいいっ」  びくん、と体が痙攣した。  瞳孔が広がる。世界が変わる。  感覚が異常な程に研ぎ澄まされていく。外で落ちる雪の囁きさえ聞こえそうな程。天井にぶら下がる照明の光が、何層にも別れて見えた。色が見える。輪郭が滲み、光の階段が見えてくる。  薬物だ。  薬を使われた。  非合法なバーで働いているのだ、こう言った経験は何度もある。セックスを盛り上げるために、薬を使おうとする客は少なくない。大抵は断るが、大金を積まれたときや、こうして無理矢理使用された場合は別だったけども。

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