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第14話

「風邪はもう良いのか?」  オフィスにはPCのキーボードをタイプする音ばかりが響いている。凍えるような静けさが支配する中で、おもむろに投げかけられたその言葉は広く部署内に広がって行った。声の主はもちろん、同僚バトシュトゥバーである。 「ああ、二日も休んだんだ、良くならなきゃ困るだろう」  クカはPCのモニターを眺めながらゆるりと返す。タイプする手は止めないままだ。先週末、風邪をひいて二日休み、それから土日を挟んだ月曜日の昼間。クカは風邪をひいていたことも忘れたように働いていた。PCの横には山積みの資料。これをすべてPCに打ち込み、整理するのが今日の目標だ。休んだ二日と土日の間に溜まった仕事を処理できるのは果たしていつ頃のことなのだろうか。 (また風邪をひかないようにしないと)  マルクがわざわざドラッグストアから買ってきてくれた栄養ドリンクの余りを片手にクカはそんなことを注意深く思った。また風邪をひけばこの山積みの仕事がまた倍に増えてしまうだろう。 「エルザがよ、自分のせいじゃないかって落ち込んでたぜ。雪の中歩いたせいだって」  バトシュトゥバーは仕事の手を止めて、まるで車か何かのようにオフィスチェアをフロアに走らせた。忙しなくタイピングを続けるクカの横にぴたりと並ぶと、モニターを覗き込んでくる。 「別に彼女のせいじゃないよ。俺の体調管理が甘かったせいだ」  そうだ、雪を甘く見て薄着で出かけた自分が悪い。エルザは当初予定していたデートスポットにクカを案内しただけに過ぎない。彼女が心病む必要はどこにもなかった。 「……マルクに移してないといいんだけど」  ふとクカはそんなことを零した。  マルク?  そう疑問符を浮かべるのは、仕事を放棄したバトシュトゥバーである。その名前が誰のものか分からなかったらしく、同僚はうんうんと数秒ほど唸ってようやく思い出したらしい。  ああ、と声を上げ、あのハウスキーパーのアルバイトくんか、と続ける。 「まだ雇ってたんだな」 「ああ、俺が熱出して寝込んでるって聞いたらわざわざ看病してくれたんだ。礼の一つでも言わないといけないと思っててね」  栄養ドリンクにドロップ、食べやすいゼリー。  マルクが払った金額はそれなりのものだろう。彼が家事代行で得られる給料で賄える範囲だろうけども、それでも苦学生の彼には突然の出費は痛手に違いない。もちろんかかった金額は給料に上乗せして渡すつもりだけれども。  そこでクカはタイプする手を止めた。  隣に座る友人の顔を見やり、ふと訊ねる。 「大学生って何が好きだと思う?」 「どうした急に」 「言ったろ? マルクにお礼がしたいんだよ。高熱出したおじさんを甲斐甲斐しく看病してくれたんだしね」  うぅん、とバトシュトゥバーは唸った。何も思いつかなかったらしい。彼はふるふると顔を左右させると、肩をすくめてクカを見返した。 「対象の性別が違うんなら俺でも思いついたかもしれねえがな。あいにく男の好きそうなものってのはいまいち分からない」 「そう、頼りにならない友人だね。うーん、じゃあ、好きなバンドのライブチケットとかどうだろう。俺達も昔よくバンドのまねごとしてただろ? 大学生ってそういう年頃じゃないかな」  若い頃とは無鉄砲で、無駄に自身を抱く時期である。  クカも高校大学と、当時流行ったバンドに憧れて楽器を練習した時期がある。もしかしたら、彼らのようなバンドマンになれるのではないかと、そんな夢想をしていたのもそんな時期だ。流石に大学後期は夢想は結局夢に過ぎないのだと理解し、現実を見るようになったものだが。 「……好きなバンドっていってもな、ピートはそいつが好きなもの知ってるのか?」 「いや……あまりそういう話はしないからなぁ」  若い青年は、そういうものだと勝手に思っていたけれど、クカはマルクのことをクカはよく知らない。好きなもの、好きな音楽、好きな食べ物、犬派猫派、好きなスポーツ――ああ、どうしてあの日、幾つか交わした会話の中で訊ねるという発想に至れなかったのだろう。あそこで訊いておけば、こうして悩むことはなかっただろうに。 「マルク、うーん、何が好きなんだろう。西の人間なら、スポーツって言ったらきっとフットボールが好きだろうと思うけど……」  マルク。  思えば彼の内面を初めて知ったのは、あのストリップバーで彼が踊っている姿を見た時だ。ただの好青年と思っていた彼の秘密。きっとマルクはクカがあの場にいた事すら知らないのだろう。仮面をつけって、オーナーと思しき男と客達の目の前で公開セックス。  もしかしたら、アレがマルクの本当の姿?  狂気さえ感じられる、あのセックス。嬌声と歓声と、様々な声が入り交じっていて、あの異常な場で、マルクは気持ちよさそうに――  だとしたら彼が喜ぶものっていったら――男の―― 「おい、大丈夫か」  思考の海に溺れていたクカを引き上げたのは、バトシュトゥバーの心配そうな声である。彼はクカの方を伺い見上げては、どうした、と訊ねる。 「……顔色悪いぞ」  いつもならば剽軽で冗句が大好きなドイツ人はいつになく真面目な声色でそう続けた。  よっぽど酷い顔をしていたらしい。  クカは友人を安心させるように笑って見せた。 「いや、ちょっと変なことを思い出しただけだよ。まったく、まだ熱があるのかもしれないね」 「おいおい、早く治せよ? 移されたら堪ったもんじゃない。……てか、恋人でもあるまいし悩んでどうするんだよ。知りたきゃ直接何か送りたいって言えばいいだろ」  至極真っ当な回答に、クカは苦笑した。  そうだ、訊けばいい。一番簡単で、安全で、確実な方法だ。 「そうだな……ああ、何か聞いてみるよ。丁度、今日マルクが来てくれる日だしね」  会話が終わり、再びモニターと向かい合った瞬間、で、とバトシュトゥバーが口を開く。他の同僚達がまだ喋る気かと呆れた視線を送ってくるが、当人はまるで意に介さない様子だった。 「そっちの大学生の話はともかく、こっちの大学生はどうだよ。エルザはピートにお熱なんだよ。デート行ってからますます気に入ったらしいぜ?」  どうよどうよ、とはやし立てるように詰め寄るバトシュトゥバー。 「え? ああ、エルザちゃんには悪いけれど……彼女は俺には若すぎるよ」  そう答えれば、期待に満ちあふれたバトシュトゥバーの顔が曇り出す。 「彼女も俺みたいなおじさんじゃなくて、若くて将来性のある子にした方がいいと思うし……なんせ年が離れすぎてるよ。彼女とのデートは楽しかったけど、何て言うか……姪っ子と遊んでるみたいな……うん、そんな感じでさ」  恋愛するというには、年が離れすぎていたように思う。あの可愛らしくもいじらしい子と愛し合うには、クカは早く生まれすぎたのだ。クカは三〇も半ば。エルザは大人になったばかりの二〇歳。クカが彼女と同じ年頃だった時、彼女が僅か五歳だったと考えれば、この年の差がいかに犯罪的であるか分かるだろう。  同僚の中には女は若ければ若いほどいいという男がいるが、いまいちクカはその気持ちが分からない。人生を共にするには、価値観が近い相手のほうがいいだろう。より近い価値観の相手を探すとすれば、年齢は最も判別しやすい指針になる。同年代ほど会話の合う相手もいないだろう。 「んーお前んとこの家事代行と会わせた方がよかったか? 同い年ぐらいで、将来性があるし」  二人をくっつけたかったらしいバトシュトゥバーは不服そうにそんな冗句を飛ばした。確かに年が近ければいいというクカの考えからすれば、マルクはエルザに適任のように思えるだろう。  だけどもマルクは―― 「……いや、それは難しいだろうね」  PCに文字を打ち込みながら、クカはバトシュトゥバーに淡々とそう返した。 「?」  頭に浮かんだ疑問符をそのまま視線に乗せて飛ばしてくる同僚に、苦笑を浮かべつつクカは矢継ぎ早に続けた。 「何でもない。いいだろう、ほら、仕事だ仕事。今日は絶対残業したくないからね。急ピッチで仕上げるから」  マルクは同性愛者で、あんな狂気じみたバーで働いている。  その事実を、時折、忘れそうになる。  いや、自身のか弱い精神が忘れようと努めているのだろう。身近な人物が隠している秘密。その現実から目を背けて、忘却の彼方に追いやって、だけども結局忘れられない。  マルクはゲイだ。  だからと言って態度を変えるつもりはどこにもないのだけれども。

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