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第15話

 今日はバトシュトゥバーがやる気だったのもあったおかげか、仕事は早く片付いた。気の狂いそうな繁忙期は一時落ち着きを見せようとしているが、しかし、年が明ければ再び狂った量の仕事が振られるのだ。早く帰ることが出来たという喜びよりも、これから数週間の忙しさへの絶望の方が大きい。絶望と言うと少し言い過ぎな気もしたが。 (……今年は家で年を越したいものだな)  出来ることなら、長らく顔を合わせていない娘とも会いたいものだけれども、それは難しい話だ。元妻はすでに新しい恋人を見つけていたし、何より、彼女たちはここから遠く離れた土地に住んでいる。飛行機で片道数時間かかる距離だ、ブラック企業リスト入りしている会社に勤めるクカがそれだけの休暇を得ることはとてもではないが難しいのだ。  きっと今年も、たった数十分のテレビ通話で面会が終わるのだろう。  いけない、とクカは頭を振った。  あまり暗くなってはいけない。今日は月曜日、マルクがアルバイトで家に来ている日だ。今の時刻は夕刻を過ぎた辺り、そろそろ夕食を作っている頃合いだろう。  家に着いたら、まずマルクに礼を言おう。この間の看病のおかげで風邪はすっかり良くなったし、何より礼がしたいと。そうして、言うのだ。君にスポーツか音楽鑑賞の為のチケットを送りたい、と。断られたら、酒でも送ればいいだろう。マルクは確か、ベルギーの出だと聞いたから、きっとビールが好きな筈だ。クカの故郷、チェコと同じ、ベルギーはビールの名産国。数多の種類のビールを酵造しているのだ。  クカは一度頭の中で、マルクとの会話をシミュレートした。  よし、大丈夫。きっと彼は喜んでくれるだろう。  そう意気込んで、自宅のドアを開いた。溶けかけた雪が付着した靴を払い、コートを掛け、光溢れるリビングルームを目指す。キッチンから漂う野菜ベースのスープの香りに、ぐっと唾腺が刺激された。  今日もミートボール・トマトスープを作っているのだろうか。 「やあ、今日も美味しそうな匂いがするね。今日は昼食を抜くぐらい忙しかったから、とてもお腹が空いていて……」  そんな言葉を口にしながら、リビングルームに顔を出し、クカは言葉を失った。脳内でシミュレートした彼と、今、キッチンに立ち紺のエプロンを着用して煮立つ鍋を見守る彼はまるで様子が違っていたのだ。 (痣?)  黒曜石の瞳を納めた左目の下には青痣が一つ。薄い唇の箸には赤い裂傷が残されていた。どちらも少し前に出来たもののようで、腫れは少し引いていたが、見ているだけで顔を背けたくなる程に痛々しい。 「……マルク? どうしたんだい、その顔」 「え? ああ、ピート、お帰り。これは、その、ちょっと前に転んだんだ。二、三日前だったかな……しばらく晴れてたろ? 溶けた雪ですべってさ」 「……そうか。俺はてっきり」  殴られたかと、と言いかけて、クカはその言葉を飲み込んだ。クカの声に被せるようにマルクが矢継ぎ早に話し出したのだ。 「痣ってのは面倒だよな。中々消えないし、顔に出来たら皆に心配される。それが大したものじゃなくてもさ。皆に言われたよ、誰と喧嘩したんだって、おかげでバーのオーナーにも怒られてさ……」  そう言ってマルクは煮立つ鍋にお玉を入れ、ぐるりとその中身をかき混ぜる。食欲をそそる香辛料の匂いがクカの鼻孔を擽ったが、先ほどまで感じていた空腹感はどこかに消え失せていた。 「そろそろ出来るからくつろいでなよ。今日は夜のバイトもあるし、早めに帰るから……あんまり手の込んだのは作れなくって悪いな」  いつもならリビングルームのソファーに腰掛けて、適当なテレビ番組でも点けてぼんやりと何もない夜を過ごしたものだろうけど、今日のクカはいつもと違った。 「マルク」  足先が向いたのは定位置のソファーでなく、芳しい香りが充満するキッチンだ。体にぴたりと張り付くタートルネックのセーターの上に紺のエプロンを身につけたマルクは、普段と違うクカの行動に戸惑っている様子だった。 「どうしたんだよ、急に? ああ、ビール取りにきたのか? だったら今冷蔵庫から……」  と、鍋の側から離れて冷蔵庫に手を伸ばすマルクの背中に触れて「いや、今日はまだビールはいいんだ」とクカは口を開く。 「じゃあ何の用なんだ? あんまりピートとこんなに近づいて話すってことが無かったからさ」  何やら合点がいかない様子で、マルクは長い首を傾げてこちらを仰ぎ見る。 「この間のお礼が言いたくって」 「この間? ああ、風邪の時のことか?」 「そのお礼というか、何というか……君に何か送りたいんだよ」 「……別に気にしなくたっていいのに。オレが好きでやったんだしさ」  マルクはそう言うが、だけどもこれだけ早く快復したのはマルクが看病してくれたおかげだろう。でなくては今もクカは酷い咳をしながら、寝室のベッドの中に籠もっていたに違いない。  それにこの〝お礼〟は看病だけに宛てたものではない。 「いつも世話になりっぱなしで悪いだろう? だから何か形にして送りたいんだ。なあ、マルクはどんなものが好きなんだい? 例えば好きなフットボールクラブの観戦チケットとか、好きなバンドのチケットとか……どんなスポーツでもいいし、言ってくれたらそれを送りたい。この間言ってた友達……確か、エディンと言ったっけ? 彼と一緒に見に行けばいいかなって」  友達と観戦に行けたら、それはとても楽しい経験として心に残るだろう。クカが昔、バトシュトゥバーと好きなバンドのライブに出かけた時は、それはもうこんなにも楽しい事がこの先あるだろうかと思うほどには熱狂したのを覚えている。共に出かける相手が〝親しい友人〟ならなお良いだろう。きっと熱く燃え上がるに違いない。  クカはあのバーテンダーを思い起こしていた。雪の道、マルクと並んで歩くあの男の後ろ姿。マルクが言うエディンという男が、どんな人物なのかクカは把握していないけれど。 「彼が君と同じものが好きだといいんだけどね……」  そこでクカはとある事に気がついた。  マルクの顔が強ばっていることに。 「…………どうかした?」 「いや、何でも無いよ」  すぐにその表情を氷解させ、マルクは赤く染まった口端をつり上げては、笑って見せた。困ったように眉を寄せて、溜息交じりに続ける。 「アイツは……エディンは、あんまりそういう所、好きじゃないからさ。外に出るタイプじゃないんだよ」 「そう、か……じゃあどうしようかな……」  ふむ、とクカは僅かに伸びた無精髭を撫でた。皮膚を引っ掻く硬い毛の感触が、散らかった頭の中身を整理してくれる。  友達と一緒に行けたならよかっただろうと思ったが、どうやらあのバーテンダーは見かけによらず外に出るのが億劫らしい。バーで交わした会話を考えるに、どうにもアクティブな性格をしていたように思えたが。  では、何を渡せばマルクは喜ぶだろう。  映画のDVDみたいな娯楽用品?  それとも洗剤みたいな必需品?  やっぱり先に考えていたビールが一番?  何が彼を喜ばせてくれるだろう。  仕事で疲れた頭で必死に考えていると、出し抜けにマルクが口を開いた。 「どうせ出かけるならさ」  と、少し気恥ずかしそうに、その高い鼻の先を掻きながらゆっくり続ける。彼の黒曜石の双眸は、上気を吐き出す高熱の鍋に向けられていた。そうしてたっぷりと時間を置いて、黒曜石がクカを見た。 「……ピートと行きたいな」  伺うような視線。  それは、クカが初めて見るマルクの表情だった。 「――俺と?」  マルクの言葉に、今度はクカが面食らった。そんなクカを見ては、マルクは「ああ」と優しく答える。 「ほら、よく顔を合わせるけど、お互い、何が好きなのか知らないだろ。だから、一緒に行きたい。場所はどこでもいい」  前から思っていたんだ。  そう言葉を紡ぎ、マルクは「ああでも」と続けた。 「嫌ならいいんだ。無理して行くのって楽しくないだろ?」 「こんなおじさんと一緒に出かけて楽しいかな? そこが純粋な疑問だけど……うん、まあいいんだ、君がそれで喜んでくれるなら、それで」  疑問の返しはマルクの苦笑いだった。  年は一五程離れていて、親子と言うには近くて兄弟と言うに離れた微妙な年の差。エルザもそうだったけれども、この一五年という差はお互いの間に薄い膜のような、そんな壁を作ってしまう。単純に話題が噛み合わないことが多くなる。  だけども共通点があれば、容易くその膜を破ることが出来るだろう、とクカは思うのである。 「……マルクはフットボールは好きかな? こんな俺でも一応、贔屓にしているチームがあってさ、週末も良く見ているんだ。でも、一人で観戦するのは、少し寂しいと思っていてね」  そうだ、あの孤独な週末に、誰もいないリビングで一人静かにフットボール観戦。その寂しさと言えば骨身に沁みる北風のようだった。胸に空いた治りようのない穴を吹き抜けていく冷たい風。 「それなら、一緒に行ってみないか? オレも好きだよ、フットボール。別にどこどこのクラブを熱心に応援してるってことはないんだけどさ」  そう言ってマルクはタイトなジーンズのポケットに手を伸ばす。黒いカバーを掛けたスマートフォンを取り出そうと、彼が僅かに体を傾けた時だった。  赤。  か細い赤が、クカの視界の端を掠めていった。 (傷痕?)  彼のタートルネックのセーターの、僅かな隙間から覗く細い痕。長い首の根元と鎖骨の間に走る赤い糸。  内出血の青と、紐が擦れて出来た擦過傷の赤。  その二つが入り交じった傷痕だ。  それはまるで、何者かに、細い紐のようなもので、首を絞められた痕のようだった。それの痕は、きっと、彼の目尻に出来た青い痣と同じで、決して触れられたくないものだろうとクカは咄嗟に判断した。 「……マルク、その首の痕は?」  それでも、クカは訊ねずにはいられなかった。  顔に出来た痣など可愛らしく思える程に異様な傷痕だ。転んでつくようなそんな生やさしいものではない。  クカの追求に、フットボールの話題で綻んでいた彼の笑顔は途端に凍り付いた。  僅かに覗く傷痕を指先でなぞるように触れ、そうして酷く居心地が悪そうに口をまごつかせた。何かを考えるように視線を左右させるが、彼は何も良い言い訳を思いつかなかったらしい。 「えっ? これは、その……ええっと……」 「普通、転んでそんな傷は出来ないよね」  転んだ拍子に細い紐状の何かが絡み付き、まるで故意に絞めたような痕が残るなんてことが日常生活で起きることがあるだろうか。  クカはマルクの長い首を隠すそのタートルネックのセーターに手を伸ばした。そっと指先をかけ、傷痕をキッチンの照明の下に曝しだした。首に残された擦過傷の痛々しい赤がクカの視界に飛び込んだ。 「……しかし、酷い傷だ。一体誰がこんな事を……?」  そう訊ねたとき、凍り付いたマルクの時間はその言葉と共に動き出したようだった。ばっとクカから離れ、首の傷を隠すようにもたついた襟を引っ張り上げる。 「これは、えっと、ああ……ホントはさ、この間ダチと喧嘩したんだ。別に悪気があった訳じゃねえんだけど、そいつ、オレの言葉に滅茶苦茶切れちゃって、それで、お互いヒートアップして、あはは」  取り繕うように笑うマルクだが、その声は先ほどまでの明るさを失ってしまっていた。  喧嘩。  マルクはまだ若い青年だ。血気盛んな年頃で、若気の至りで殴り合いの喧嘩の一つや二つくらい経験することはあるだろう。しかし、それはただの喧嘩だった場合だ。友人の顔を殴り、挙げ句の果てには首を絞める。殺意さえ垣間見えるその凶行。  クカはぞくりと嫌な汗が背に伝うのを感じていた。  これはおかしいだろう、とクカの理性がそう訴える。 「……相手が誰だかは知らないけど……それは喧嘩という言葉に納めるには、行き過ぎた暴力だと思うよ。相手の首を絞めるだなんて……!」 「……いや、いつもの事だし。慣れてるよ」  眉を顰めてマルクは明後日の方角を見やった。  殴られた際に割れたであろう口端の傷が痛々しい。  慣れているだって?  クカはマルクの言葉を頭の中で復唱した。 「その友達っていうのは、この間一緒にいた相手なのか」  びくりとマルクの肩が大きく震えた。  彼の肌は土気色で、その目はクカでも鍋でもない何か、そう、忌々しいものを見るような鋭さを宿し始めていた。一見しただけでも分かる程に、マルクは狼狽えている。 「…………ああ、いや、違う。ホントに大した事無いんだ。色のせいで大げさに見えるだけさ。痛くもないし、顔の傷だって大したことッ……!」  マルクの弁明を遮って、クカは彼の赤い口角にそっと触れた。赤黒いかさぶたは厚く傷を塞いでいたが、この乾燥した寒さのせいかひび割れていた。赤い傷口が微かに垣間見えている。  痛みは相当なものだったらしい。マルクは言葉を飲み込み、その顔を渋く顰めていた。 「どこが大したことないんだ。こんなに痛がっているのに……なあ、隠さないで良く見せてくれないか。それは紐で絞められた痕なんだろう」  マルクは答えない。  沸騰する鍋と吹き上がる蒸気の音ばかりがキッチン内に木霊する。煮詰まったトマトの匂いが充満している。火に長くかけ過ぎてしまったらしい。 「ただの喧嘩には見えないよ。痣も、その首の痕も、紐で首を絞めるなんて」  殺意が無いのに、どうして首を絞めることができるだろうか。 「何でもないって言っているだろっ……ほっといてくれよっ!」  マルクがクカを押しのけて、吹きこぼれるトマトスープに手をかけた。溢れたトマトスープが、焦げた臭いを漂わせている。コンロの火を消して、マルクはエプロンを外す事無くキッチンから飛び出した。 「…………もう帰るよ。心配させて悪かったけど、ホントに何もないんだ。何ともないんだよ」  リビングの片隅に置かれていたリュックサックとダウンジャケットを掴むと、マルクは手早く身につけていく。 「それと、スープごめん。……少し焦げてさ、ちゃんとしたの作りたかったんだけど……もういかないといけないし」 「マルク! 待ってくれ、マルク」  クカの制止の声も届かず、マルクはあっという間に家を出て行ってしまった。  虐待?  DV?  マルクが受けている仕打ちはあまりに惨いものではないだろうか。  相手は誰だ?  ゲイバーの客?  それともマルクを犯していたMCもどき?  いや、あのバーテンダーか?  分からない。  分からないからこそ、知らなくてはならないのではないか。  クカにある考えが浮かんでいた。  それはあまりに愚策で、それ以上に画期的な方法はない。  あのゲイバーに行く。  それが混乱したクカが導いた答えだった。

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