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第16話

 あの店を探すのに時間はかからなかった。  歓楽街の奥底。人を呼び込む気配が微塵も感じられない、奥まった場所に佇むあの店の前には、以前と同じガードマンが立っていた。服装が替わっただけで、何も変哲のない強面にIDカードを見せてクカは店へと足を踏み入れた。好奇心に突き動かされて興味本位で入ってしまった時とは違う、確固とした意志を胸に。  月の光も、星の輝きも隠した曇天の空。街灯とケバケバしいネオンだけが道を照らす真夜中の闇に慣れた目が、光に満ちた店内に拒否反応を示す。痛み。眼球に走る痛みが、クカを出迎える。  しばらくぶりの艶めかしい輝き。激しい音楽。男達の熱気と、酒の匂い、それから踊り狂うストリッパー。以前来たその時となんら変わらない風景。客の顔ぶれはきっと変わっていたのだろうけど、クカにはその詳細は分からない。 「おお、また来たんだなビールの人」  店の中へと少し進めば、クカに投げかけられる軽快な声。振り返れば撫でつけたダークブロンドがクカを出迎える。  バーテンダー――マルクがエディンと呼んだ厳つい顔の男がそこに立っていた。その手には空のカクテルグラス。他の店員では無く、バーテンダー当人が誰かに配膳していたのだろうか。 「……え、ああ、顔を覚えていたんだね。一度しか会ったことないのに」 「仕事柄、一度見た客は忘れねえんだ俺は。そいつが何を頼んだかもな。相変わらずビールの品揃えは悪いが、良かったらまた飲んでいってくれよ」  そう言ってエディンはカウンターバーへと歩いて行く。  バーの雰囲気に良くあった、棚のライトアップ。蛍光ブルーの輝きが、バーテンダーを照らし出す。既にバーの席に着いてた客の何人かが彼に酒をオーダーし、エディンは手早く注文の品を用意していった。  彼はマルクの友人だ。マルクが口にしたその単語が、どこか含みを持っていたのを良く覚えている。少なくとも、マルクのことについては何かしら知っていることだろう。彼が暴力を振るったかどうかは別として。  ストリップショーに夢中な男達の間を潜り、クカはカウンターバーへと急いだ。そうしてぽつぽつと客が座る座席の、一番角の席に座ると、なあ、とエディンに声をかけた。 「どうも、ビール? チェコ産のはないけど、新しくドイツ産のを仕入れたんだ。アンタの口に合うかは分かんねえけど、中々旨い方だと思うぜ?」  そう言ってエディンは瓶ビールをカウンターの上に並べた。よく目にする銘柄で、味はまあまあ。嫌いではない方だ。  バーテンダーの気を損ねない為に、クカは彼の進めるドイツビールをそのまま飲むことにした。代金を先に支払えば、エディンが王冠を取り外した。ぽんと気前の良い音がして、ビール独特のホップの香りが麦酒好きの脳を擽る。本当にビールが好きなのだと改めて確認しつつ、クカはドイツ産のビールに口をつけた。かのドイツの国らしく、純粋な味わい。混じりけの無い麦の匂いがアルコールの刺激と共に脳天へと突き抜ける。一口、二口と飲みんだところで、クカはエディンに話しかけた。彼は丁度グラスを拭いている最中だった。 「君、ええっと名前は……」 「エディンだ。そういえば自己紹介はまだったな」 「そう、エディン。君は、ティ……いや、あの背の高いストリッパーは今日来てるかは分かる? 彼のショーがもう一度見たくて……また来たんだ」  滞りなく話すことができたと思う。  一度マルクの名を出しそうになってしまったが、この騒がしいバーだ、ふと飛び出した名前の、その僅かな発音を聞き取る耳を持っている人間は少ないだろう。 「あ? ああ、アイツのことね。アンタ運がいいな、丁度これからだ。もう少し時間は後だけどな」  クカの思惑通り、僅かなノイズを聞き取ることはなかった。  「もっと飲めばいい。酔えば酔うほど、ここのショーは楽しめるしな」  むしろ酒を勧めては、更に金を落とすように求めてきた。  余った時間を酒で埋めるようにと。  その誘いに乗って、もう一本ビールを追加で頼んだ。緊張と言い知れぬ興奮からか、喉が異様に乾いていた。胃はまるで砂地のように酒を吸い込み、異常な指示を出す脳をより強く酩酊させていく。  BGMが切り替わったタイミングで、クカはエディンに訊ねた。こんな場所だ、酔ったぐらいが丁度いい。今の自分にはカンフル剤が必要だった。 「エディン、君は彼のことをよく知ってるの?」 「ああ、そりゃあ、知らない訳がねえだろ? アイツをここに紹介したの俺だしな」  まあでも、とエディンは続ける。 「……アイツはお勧め出来ないけどな。記憶に残る熱い夜を過ごす相手にはぴったりだろうけど」  にたり、と彼は下卑た表情を浮かべた。  そういう顔は見慣れている。金の話をするときの下品な顔は。 「幾らかかるのかな、彼と、その……」  と、そこまで口にしてクカは逡巡した。  酒の勢いを借りても、この言葉を口にするのは気が引ける。なんせクカは、かつての妻と以外に性交渉をしたことがなかった。こんな店に来ることもなければ、男を買うだなんて、そんなこと考えることさえなかった。 「アイツをファックするのにか?」  言いよどむクカに対して、エディンはあえて直接的に返してきた。にたりといやらしく笑っている。 「……ああ、そう、そうだ。抱くのに幾らかかる? この間はお楽しみの時間までいられなかったから、よく分からなくって」 「基本は一回三〇〇ユーロからだけど、大抵の奴はオプションつけるからもうちょいかかるかな。アンタがどんなプレイが好きかで変わってくる。アンタにチャンスがありゃあ、一発楽しめるかもしれねえな」  エディンが目を細めてお立ち台の方へと視線を向ける。  彼の言葉の真意を尋ねようとした刹那、再びBGMが切り替わり、照明が一段階落とされる。男達の歓声が一際高くなった。  ああ、来た。  そう思った。  カウンターバーの向こうの彼でなく、クカは店の中央へと視線を向ける。そこにはまたあのオーナー然とした男と、過激な衣装に身を包んだマルクが立っていた。以前見た時とはまた毛色の違うその衣装。彼の長い首を拘束するレザーの首輪はてらてらと怪しい照明の光を受けて淫靡に輝いていた。 「さあ、これからお楽しみタイムだ! このビッチとヤリたいって客は名乗りを挙げてくれ」  お立ち台の前を占拠していた男達が一斉に手を挙げる。俺にやらせろ、俺がやる、俺が、俺が俺が。そんな声が轟いている。長らく続いていたショーの最後、今まで熱されてきた男達の興奮は今にも破裂しそうなほどに膨れあがっている。  その様子を満足げに見下ろす男がマルクに訊ねた。 「ほら、選ぶんだ。誰がいい?」  男が訊ね、マルクがその内の一人を指名する。黒い革手袋で覆われたその指先が選ぶのは、浅黒い肌をした男だ。指名された彼は酷く嬉しそうに拳を握り、壇上へと登っていく。 「…………っ」  その後の様子は、見ていられなかった。マルクが見知らぬ男に犯されている姿を直視することが出来ない。カウンターバーへと向き直り、背後から聞こえてくる喘ぎ声とはやし立てる観衆の声を聞き流すよう勤めながらクカはビールを呷った。  そんなクカの姿に、心底理解できないとでもいうように細い眉を顰めたバーテンダーが首を傾げつつ訊ねてきた。 「なんで手挙げなかったんだ? あんなにヤりたそうな口ぶりだったってのに。アンタは見た目も良いし、体つきもいいから選ばれたかもしれない……まあ、初っぱな公開セックスショーはいやだよなぁ。アンタみたいなお堅い人間にはちょっとばかしキツいかもしんねえな」  クカはもう一度ビールを口にした。  もっと必要だと思った。もっと酩酊しないとここにいられない。だけどもマルクを説得するには、逃げ場のない場所で二人きりになる必要がある。  クカが頼んだ訳でもないのにエディンが次のビールを用意していた。勝手に王冠を開け勧めてくる。これも勘定に含まれることだろう。 「まあ、でも本番はショーが終わった後だ。夜はまだ続くわけだし……それに終わった後の方が楽しめる。なんせ、アイツを独占できるんだ」  それに、とエディンは耳打ちする。 「アイツ、何発ヤられても締まりは最高なんだよ。むしろ、ヤられまくった後の方がイイかもな。スゲえ声で鳴くんだ。意識がぶっ飛んでも男が欲しいってな」  酒と同じく、マルクを勧めて来るのは、それが彼の利益に繋がるからだろう。下品で、性欲を煽るうたい文句。買うか買うまいかと揺れる男の背中を押すその言葉。 「……六〇〇払う」 「ん?」 「二倍の六〇〇払うから、彼を買いたい」 「いつ?」 「今晩だ」

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