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第17話
クカが歩くはバーの二階。
一階のバーの奥にひっそりと隠れるように存在する長い階段を上った先にある、個室を目指して歩いていた。ここには幾つも個室が並んでいる。客がお気に入りの子と致す為だけの部屋だ。扉越しにくぐもった嬌声が聞こえて来、かあっと血が上ってくるのを感じた。薄い扉を開いた先の情景を、無駄に想像してしまったのだ。
先を歩くのはバーテンダー。ダークブロンドの髪をワックスで固めた男は、軽薄な笑みをその厳つい顔に浮かべては買った男娼についての注意点をつらつらと語っている。どのプレイは禁止で、どの行為が許されるか。夜を更に盛り上げる為に使う玩具についての注意点も、部屋へ案内する僅かな時間にいやと言うほど聞かされた。
「アイツは基本何でもありだ。金さえ払えば大抵のことはやらせてくれるよ」
「……そう」
「何? 緊張してる? 俺より年いってるだろうにさ」
彼のいやみな言葉に無言で返せば「ああ、そう気を悪くしないでくれよ」と背中を叩かれる。
途中、突き当たりの部屋から出てきた男とすれ違った所で、不意に、エディンが足を止めた。方々の部屋から聞こえてくる嬌声に隠れてしまいそうな程に声量を極限まで落とし、エディンはそっと耳打ちした。クカの横にぴとりと体を寄せて、まるで隠れるように立つ。
「なあ、部屋に入る前にさ、一つ……」
そう言って制服のポケットから一つ、ビニールの小袋を取り出すとクカの手に握らせた。
「これ、特別オプション。もっと払えば、熱い夜が忘れられない夜に早変わりするんだぜ?」
一層鋭くなったエディンの視線がクカを射貫く。
手に握らされた小袋。その中には白い粉末が少量収まっている。
薬物だ。
クカはすぐに察知した。いや、これで分からない人間がいるだろうか。この国では合法の薬物は存在しないし、単純所持を見つかれば最低でも懲役二年もしくは罰金である。アルコールに溺れたことはあっても、流石に薬物には手を出したことはない。
「どう?」
「どうって……これが一体何なのか、説明がなくっちゃ……」
クカは何も分からないふりをした。こうして曖昧に笑うのは最も得意な演技だろう。何も分からない。彼が何を提案してきたのか、この粉がいったいなんであるのか、何も知らないし分からない。
手に握らされたビニールの小袋を、逆にエディンへと握らせる。
彼はぎらついた瞳を即座に曇らせると、ああそう、と明らかにトーンを下げて対応する。
「はっきりと分かったよ。アンタ、マジモンの童貞だな」
そう呆れた様子で言われ、流石のクカもかちんと来た。
濁した言葉で勝手に話を持ちかけられ、話に乗らなければなければ童貞呼ばわり。まあ、確かに、こんな淫蕩な店を利用したことはなかったし、ましてや男を買ったことなどない。エディンの言う通り、クカはある意味、こちらの方面に置いては童貞といえた。
だからといって馬鹿にされる謂われはないし、何より、そんな得体の知れない薬物など誰が買うというのだろう。この国に流通する薬物など膨大で、粗悪品も山ほど存在するという。
言葉が喉の奥底からこみ上げて来たが、クカはぐっとそれを飲み込んだ。ここで言い争う必要はどこにもなかった。良いんだ、とエディンは小馬鹿にした様子で続ける。
「初めての相手にアレは少し刺激が強すぎるしな。下手すりゃ〝お楽しみ〟だけに留まらなくなっちまう」
だって、と続け、エディンはそっとクカの側を離れた。そのままの足で廊下を歩き出し、そうしてクカへと視線を向ける。
「酒だって、初っぱなから度数高いモンから飲みゃあぶっ倒れちまうしな?」
そうしてしばらく廊下を歩き続け、ついに辿り着いた突き当たりの部屋。他の部屋とは雰囲気の違う、少しばかり豪奢なその扉の前に立ち、さて、とエディンが口を開く。
彼の手がクカの方へと差し出され、薄暗い廊下の照明がぎろりと輝く銀の指輪を照らし出す。細身のリングは彼の心を表したようにぎらついている。まるで猛禽類の目のような鋭さだ。
「ここまで来て悪いんだが……ここでのルールじゃ、前金で先に三分の一払ってもらうことになってんの。残りは相手に渡してくれたらいい。ヤるだけヤって逃げる奴がたまぁにいるんだよ。アンタはそんな奴らとは違うだろうけど、まあ念のためだ」
とまあ、そう言わた以上、クカは金を払わなくてはならない。
クカはポケットから財布を取り出すと、五〇〇ユーロのおおよそ三分の一、一七〇ユーロを支払った。
「どうも。じゃあこの部屋でゆっくりしていってくれ。今に、アンタのお気にがやってくるぞ」
部屋は思った以上に騒然としていて、マルクが先ほどまで着ていたらしいショーの衣装がハンガーにかけられるでもなく転がっていた。
個室の中にあるのは、大きめのベッドが一つとテーブルが一つ。それから鏡台が一つ。クリスタルカットの水差しとグラスが並ぶテーブルには対になった椅子が二脚ほど用意されていた。
この部屋にマルクの姿は見えない。代わりに水の音が浴室の方から聞こえてきた。たぶん、彼は浴室で体を綺麗にしているのだろう。
クカはベッドに腰掛けて、じっとエディンの背中を見つめていた。彼は部屋の手前、クカが入ってきたドアから数歩進んだ先にある浴室の方へと足を向け、断りもなくその磨りガラスのドアを開いた。途端、鮮明になる水の音。暖かい水蒸気がもうもうと個室の中へと広がっていく。
おいマルク、とエディンが浴室の中へと声をかける。
「今晩お前を買った奴が来たぜ? 早く出てこいよ。お前に一目惚れした新顔だ。あんまり待たせてやるなよ」
「……いやに急だな。まだ体綺麗に出来てないって……」
タイル張りの狭い浴室で反響したマルクの声。呆れたような、困ったような、そんな様子の彼のことなどお構いなしにエディンは「もう部屋にいるからな」とだけ残して部屋を出て行ってしまった。
「……おい、エディン! ったく、ドアを閉めることも出来ないのか、アイツはっ」
苛立たしげな声と共に、浴室からぬっと伸びる細長い手。昇る湯煙の中から浮かび上がる人影は、クカが良く見慣れたものだった。濡れた髪はそのままに、下腹部だけをタオルで隠した彼は、どうも、と苛立たしげに一言。
「せっかちさん、聞いているとは思うけど、汚いのはNGだから」
水の滴る前髪を掻き上げた、マルクのうんざりとした表情がどこか艶めかしく思えたのは、きっとこの場の異様な雰囲気に呑まれているせいだ。
黒曜石の瞳がベッドに座るクカを捉えたその刹那、眠たげに垂れた二つの目がこれでもかと言わんばかりに見開かれた。
時間が凍り付くとはこのことか。お互い視線を合わせたまま、身じろぐことさえ忘れて硬直している。ぽつぽつと滴り落ちる水滴だけが、時間を覚えているようだった。
「……ピート……なんでアンタがここに……」
震える声は赤いラインの走った喉から溢れ出す。
愕然。それ以外に彼を形容する言葉は見当たらない。
驚愕に見開かれた二つの目。その中央で輝く黒い瞳は焦点が合わず、彼の心のように大きく揺れ動いていた。
ひたりと水の音がした。マルクの濡れた足が床を踏みしめた音。伸びる長い手が浴室のドアにかけられていたタオルを引っ張った。慌てて腰にタオルを捲いて、クカの前に躍り出る。
濡れたタオル一枚だけがを纏ったマルクの肢体。
長身である彼の長い手足は、個室の怪しい光の下でぼんやりとその輪郭を浮かび上がらせていた。彼の体に残る生々しいセックスの後。滑らかな体のラインに沿うように落とされた赤い痕は点々と続き、先ほどまで行われていた男同士のセックスの臭いを強く残していた。
「マルク」
クカは名を呼んだ。
いつもと変わらない呼びかけだったように思える。だけども、クカ自身、異様な程に緊張していた。いやに喉が渇いていて、口腔内が粘ついていた。
どうやって知った。
マルクが声を荒げる。
「……そもそも、アンタゲイじゃねえだろっ、なんでここにいんだよ」
マルクはますます語調を強めて続ける。
当たり前だろう。彼からすれば、クカは招かれざる客だ。彼のもう一つのアルバイトとは無縁の、決して踏み入れる筈のない客。ひた隠しにしてきた自身のもう一つの面を知られてしまったのだ、動揺しない筈がない。
「まさかショーを見たのか? ……ああ、嘘だろ、いやだ、なんで、ピートがこんな……クソっ」
クソ、クソ、クソ。
怒りと困惑がマルクの内側で渦巻いているようだった。誰にいうでも無く汚い言葉を口から吐き出し、苛立たしげに髪を掻く。薄い唇を噛みしめて、苦しげにクカを見やった。
「……エディンか? あのクソバーテンダーがピートをここに呼んだのか? わざと?」
「いや、俺が自分の意志でここに来たんだ」
「じゃあ何で、どうしてこんな所に? アンタが来て良い場所じゃ……」
――ないだろう。
混乱したままのマルクは、酷く辛そうにそう訊ねた。
クカは答える。
「君を止めに来た」
「止めに?」
酷く信じられないというようにマルクは顔を左右させた。
止めるって?
そう何度も言葉を繰り返す。
クカはベッドから腰を上げた。おもむろに立ち上がったクカの存在に、マルクが怯えたように後じさる。クカは手を差し伸べた。クカの一挙一動に怯える、背の高い青年に。
マルク、と名を呼んだ。
肉食の獣に怯えるウサギみたいに身を強ばらせた青年を、取り巻くその恐怖心を解きほぐそうと、努めて優しく話しかけた。
「マルク、こんな仕事止めよう。最初、このことを知ったとき、君のプライベートな問題だと思って何も知らないふりをしていたけれど……この店の仕打ちはあんまりだと思わないか?」
法に触れたショー。
違法薬物を売りつけようと画策する店員。
売春だけでも彼を酷く傷つけるだろうに、この店の何もかもがマルクを苦しめ追い詰める存在だ。
「あんなショーでお金を稼いだって、傷付くだけじゃないか。その首の傷だって、手の傷だって、この店の誰かがつけたんだろう?」
クカは一歩マルクとの距離を詰めた。
それに合わせるように後じさるマルク。その生白い背中の先に待ち受けるのは、古めかしい壁紙を曝した壁だ。こつんと小さな頭が壁に触れる。濡れた髪に埃がついたが、今のマルクに洗い立ての髪が汚れることなどどうでも良いのだろう。
壁に追い詰められたマルクとの距離をクカは更に詰めた。より鮮明になったマルクの傷。顔についた痣や首に走る赤いライン、更に四肢を拘束していたであろう手足首の痕がよりはっきりと見ることができた。
いったいどんな酷い仕打ちを受けてきたのだろう。
どれだけもの間彼がこの店で働いているのか、クカは知らない。白く見えるその肌に、どれだけの傷がついて癒えていったのか。
「マルク、君のプライベートにずけずけと押し入って、勝手なことを言っているという自覚はあるよ。でも、君が心配なんだ」
クカはじっとマルクの目を見つめた。黒い瞳には、真摯な眼差しのクカが映り込んでいる。
詰めた距離はほぼゼロに等しくなった。マルクの素足とクカの靴が触れ合ってしまいそうな距離。彼の荒い吐息が頬を撫でていく。
「…………なんだ」
マルクがおもむろに口を開いた。
その顔を何と形容すべきか、クカには適切な言葉が思い浮かばない。何だろう。その目が持つ色は何を意味しているだろう。
彼の薄い唇は半月の笑みを形作っていた。
彼の黒い眼差しは今にも泣き出しそうなほどに歪められていた。
「止めに来たって、そんな、馬鹿みたいな理由で」
「俺は君のことを思って」
「ああ、そう、本当に……ピートって、優しいんだな」
あは、は、と乾いた笑みが、僅かに血の滲んだ唇から漏れ出した。綺麗な白い歯が開いては、漏れ出す呼吸。その熱。彼の感情の何もかもが入り交じった熱。
「優しくって、酷い奴」
濡れた手がクカの肩を掴んだ。分厚い生地に食い込む爪。かなりの力が込められているのだと気づいた時には、クカは突き飛ばされていた。ひたりと飛び散る水滴が、クカの頬に付着する。
痛みが一拍遅れてクカに伝わった。強かに腰をぶつけて、思わず声が漏れる。
「……っ、マルク?」
見上げれば、黒い髪を掻くマルクの姿があった。頭から顎に伝わる冷えた水は、ぽたりぽたりと涙のように床へと落ちて消えていく。
オレは、とマルクは声を張る。
「これで稼いでるんだ。アンタもらえる給料で、他のまともなバイトだけで、学費全部賄えるか? 出来ないだろっ? オレには金が要るんだ。将来の為にも金がいるんだよ!」
最初は落ち着いていたマルクの声は次第に強まり、最後はほとんど叫ぶような怒声へと変化していった。
「辞めろって言うのは簡単だよな。言うだけ言って、正しいことした気分になれるもんな! その後のことなんて考えないで――」
マルクが叫ぶ。
「アンタに何が出来るんだよ! じゃあ、何だ? 何だって言うんだ? オレに投資してくれんの? 金払ってくれんの? 学費全部代わりに払ってくれんの? オレの部屋を借りてさ、オレの為に何もかも用意してくれるっての? たった一年顔合わせただけの関係だってのに!」
「それは……」
「無理だよな? だってアンタ養育費払ってるもんなっ。ストレートで、子供がいて、オレの気持ちなんて知りもしないアンタだから簡単に言えるんだ」
そこで一度マルクは口を止め、一つ大きく呼吸をした。
「……それがどれだけオレを苦しめると思う? アンタの優しさが、どれだけオレを傷つけてるか想像したことあるか?」
しっとりの濡れた黒髪の下で、顔をくしゃくしゃに歪めて、それでも唇だけは無理矢理つり上げて、マルクは笑った。心が締め付けられるような笑みだった。
「あ、もしかしてアレか? ゲイのストリッパーが家に入るのがいやだって? それなら早々にクビにでもしてくれりゃあいい。そっちがお互いの為だろ。アンタはもうオレに気をかける必要もないんだ」
「違う、俺はそんなつもりは微塵も……!」
クカは声を上げた。
尻をついたままの腰を上げ、マルクの言葉を否定するようにかぶりを降った。
マルクが生まれ持った性的嗜好を否定するつもりはどこにもなかった。ただ、彼を、この歪んだ世界から救い出したかった。痣を作ることがもう二度とないように。口を出すのがおかしいことだとは分かっている。分かっていても、彼を救いたくて仕方なかった。
クカが何か言おうと口を開いた時だった。マルクが遮るように手を掲げた。クカから目を逸らし、唇から滲んだ血を舌先でぬぐい取る。
「分かってる、分かってるよ。アンタが優しい人間だって知ってるんだよ。分かってるんだよ……クソ、どうしてこうなんだ。いつもそうだ。ちょっとでも希望を持ったら、すぐに叩きのめされるんだ」
マルクは文字通り頭を抱えた。
「……オレは金が欲しいんだよ、ピート。その為なら、ケツ掘られようがなんだろうが関係ない。殴られようが首絞められようがな。少し我慢すれば、大金が手に入るんだ」
それは自分に言い聞かせるような言葉だった。自分の体を己が手で抱きしめて、今にも震えてしまいそうな声を指先に力を込めることで押さえ込んでいる。爪がマルクの白い肌に食い込んだ。
「でも、このままじゃ君は破滅する。違うかい?」
薬物。異常な性癖。イカれたセックス。
マルクの心は摩耗して、すり減って、消耗しているに違いない。いずれは破滅が彼を待ち受けている。性を売りにしているほとんどの人間が精神を病んでしまうのと同じように。
「君の体を見てごらんよ。傷だらけだ。君には助けが必要なんだ」
ボディピアスに、タオルの隙間から覗くタトゥー。それらは彼の趣味だと言ってしまえば片付いてしまうだろうけども。首の痕や、顔についた痣は趣味や性的嗜好の範疇を大きく逸脱しているだろう。
クカはマルクに向けて手を伸ばしたけれど、マルクが力強くそれを撥ねのけた。軽い痛みが手の甲に走る。僅かに熱を持ち、赤らんだ皮膚をさすりながら、クカは続ける。
「君からしたら、勝手な話かもしれない。でも、俺は君を助けたいんだ……」
たった一年の付き合い。
マルクはそういった。確かに、クカとマルクが出会って一年と少ししか経っていない。アルバイトと雇い主、そんな関係だったし、まともな会話も少なく、お互いのことを知る機会はほとんど無かった。
それでもクカはマルクを助けたかった。
彼が必要とするもの全てを与えることは出来ないだろう。クカの雀の涙ほどの稼ぎでは、マルクを養ってやれる財力がない。だけども、彼を助けるだけの援助は出来るのではないのだろうか。金銭的にも、精神的にも、彼の支えになることが出来たなら。
マルクが強く目を瞑る。
そしてしばらくして、ゆっくりと固く閉じた瞼を開いた。
「そう」
淡々とした声だった。
じゃあさ、とマルクが続ける。今まで彼を取り巻いていたあらゆる感情がすとんと落ちたように、静かで、落ち着いた声だった。
「抱いてよ」
卑しく笑ったマルクがそんなことを口にした。
黒曜石の輝きを持つ二つの目がすぅっと細められ、間の抜けた声を上げるクカを見下ろしている。
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