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第19話
マルクと体を重ねて三週間もの時が流れた。
とっくに年は明け、結局クカは愛娘とのテレビ電話もまともに出来なかった。仕事、仕事、仕事。いつも以上にのめり込んだのは、マルクのせいだろう。彼と顔を合わせたくなくて、自分の仕事が終わっても周りが残した仕事を引き受けて、そうして深夜に帰ることが多くなった。昨日なんて会社に泊まったくらいだ。もちろん、あの近道は使っちゃいない。
マルク。
ああ、どうしてこう思い浮かんで来るのだろう。
彼の顔、彼の白い肌、耳の奥底にこびりついて離れない嬌声のなまめかしさ。脳の片隅に焼き付いたまま消えないあの快感。思い出すだけで、かつてはまるで興味がなかったセックスへの欲求がわき上がってくる。
男と寝たことはないし、そんな考えに至ることもなかった。
何せ、クカはストレートだ。そう信じてきた。周りの友人や同級生達と比べて、少し淡白な方だと思ってはいたけれど。
(……マルク、マルク、マルク)
彼に会いたい。
だけども会いたくない。
今までの自分とは違う自分になってしまう、そんな気がして怖かった。あれから三週間、クカはマルクと会話はおろか連絡の一つもしていない。
だけども、自宅はマルクが掃除していったらしい。二日ぶりに訪れたリビングは整然としていた。キッチンの方には作り置きの料理。香辛料の香りがまだ漂っていることから、少し前まで彼はいたらしい。
クカははあと溜息をついて、冷蔵庫からいつもの瓶ビールを取り出した。王冠を栓抜きで取り払い、よく冷えたビールに口をつけた。
(……いつものと違う。ドイツビールか)
一口で気づいた。
いつものチェコ産のそれとは違う味。あの厳格な国らしい、混じりけのないビールの味。マルクが間違えたのか、それともいつもの銘柄が売り切れていたのか。一度口を離したが、仕方ない。今ここにあるビールはこのドイツビールだけだ。
飲み慣れない味を眉を顰めながら、クカは作り置きの料理の一つを片手にリビングへと足を向けた。テーブルの上に瓶と料理を乱雑に置き、テレビを点けたところで一つ見慣れないものがソファーに放置されていることに気がついた。
「……これ」
誰のものだろうか。
ソファーの上に転がる見たことのないリュック。鮮やかな朱色の、たっぷりものが入りそうな大判のリュックサックだ。どこのブランドかも分からない、タグさえないそのリュックはきっと量販店にでも置いてある安い学生向けのものなのだろう。
マルクが忘れていったものだろうか。
いつもマルクが背負っていた黒いものとは全く雰囲気が違うので、何となくらしくないと思ったが。
何となしに持ち上げて見れば、どうやら中身はたっぷり入っているようだ。重さからして中身は大学で使用する書類や、ノートパソコンの類いだろう。
マルクに連絡を入れなくては、とスラックスのポケットからスマートフォンを引っ張り出すと、不意に玄関ホールの方から音が聞こえた。それは施錠した筈の鍵が開けられる音だ。
「マルク?」
忘れ物に気づいてマルクが戻ってきたのだろうか。
そう思ったと同時、クカの胸がざわついた。マルクと顔を合わせる、そんな考えが過ぎるだけで体が硬直した。
足音がリビングへと近づいてくる。廊下の仄暗い照明が、彼の影をクカに見せつけた。そうしてひょっこりと顔を出したのは、クカが望み、そして恐れた彼ではなかった。
彼はこの国に住まう男性の平均身長よりも小さく見えた。後ろ毛を刈り上げた髪型は、今流行のツーブロックという奴か。やや浅黒い肌。黒い瞳はマルクのそれによく似ていたけれども。
「わっと、どうも、帰ってたんだ。急で申し訳ないんだけど、リュック忘れていってない?」
「君は誰だ? どうやって入った?!」
頭が混乱していた。
彼はマルクじゃないし、恐らく親族でもないだろう。見たこともない小柄な男は、クカに気さくに話しかけてくるのだ。
「いや、ちょっと落ち着いてよ。俺はコバルビアス。名字はちょっと長くて覚えにくいだろうから、ホルヘって呼んでくれ」
「それで、ホルヘ、君はどうして俺の家にいるんだい? 回答次第ではすぐに警察を呼ばせてもらうからね」
泥棒? それとも強盗?
鍵を作って侵入したか?
いや、盗人ならリュックを忘れるだなんてそんな過ちを犯すだろうか。
この冬の夜には似つかわしくない明るい笑顔を携えていた青年は、警察という単語を耳にするなり途端に表情を曇らせた。
「はあ? 警察? ちょっと大げさすぎやしませんかね。俺は家事代行の仕事でここに来てたんだけど……」
「家事代行? それはマルクが……」
まるで図ったようにクカとホルヘは首を傾げた。
このホルヘと名乗る男はハウスキーパーの仕事で家を訪ねたのだという。
「ったく……マルクの野郎全然連絡入れなかったんだな……」
「マルク? 君はマルクの知り合い?」
クカは反射的に訊ねていた。
まあ、知り合いでなければおかしい話だが。
クカの家の鍵を持っていて、家事代行という単語を口にしたのだ、同じ大学に在籍していて、大学が斡旋するハウスキーパーのアルバイトに申し込んだ学生に違いない。そうなれば必然的にマルクに近い人間になるはずだ。
ホルヘはクカが思う通りの話をしはじめた。
「同じ大学に行ってて、マルクの友達? なのか? あっちがそう思ってたらいいんだけど、俺はダチだと思ってるよ。うん、で、ついでに同じバイトやっててさ、そ、このハウスキーパーの仕事ね。応募した日が一緒でさ、面接も一緒に受けたんだ」
「そう」
「で、マルクがしばらく出来ないって言うからさ、代わりに俺が行くことになったワケだ。てっきり連絡行ってると思ってたんだけどなぁ……」
連絡、と聞いてふとクカは、今手に握るスマートフォンに幾つかの通知が来ていたことを思い出した。一週間、まともに見てこなかった液晶画面。そこにぽつんと赤く光るメールアプリ。手早く操作して、クカは一つのメールに辿り着いた。
「あ、ああ、これか、すまないこっちも仕事が忙しくて、中々メールを見ることが出来なくて」
実際は意図的に見ていなかったのだけども。
クカが開いたメッセージ。そこには、連絡ノートに書いてあるような簡素で簡潔な文章が書かれていた。
――これからしばらくオレの同じアルバイトのホルヘ・レスレクシオンが行きます。返信はいりません。彼を必要としないなら、派遣先に連絡して変えて貰ってください――
とまあ、何とも無責任で突き放すような文章だ。
これでホルヘが何かやらかしたものなら、大問題になっていただろうに。いや何もしなくとも、相手がクカでなければ大問題に発展していたことだろう。
「ああ良いんだよ、俺は気にしてないから。連絡の行き違いって良くあることだろ?」
に、と気さくに笑う彼は、で、と矢継ぎ早に続けた。
「マルクから基本のことはだいたい聞いてあるし、一応ほとんど済ませてはあるんだけど……あ! 今日のことは、出来ればバイト先に内密にして欲しいんだけど。だって了承なしに部屋入ったってことがバレたらかなりヤバい」
「君が悪い奴じゃないってことはよく分かるから、気にしないでくれ。俺もメールをちゃんと見てなかったしね。上の方に連絡はしないから、安心してくれていいよ」
ホルヘに悪意がないことはその表情からして明白だ。
何というか、害のない表情と言うか、特に何も考えていなさそうな、あっけらかんとした彼の雰囲気。クカは職場の同僚の顔を思い浮かべていた。ホルヘは彼ほどとは言わないが、系統が良く似ている。無鉄砲で考えなしなところが。
クカの寛容さに胸を撫で下ろしたらしいホルヘ。彼は安堵の溜息をつくと、また元気そうな笑みを浮かべては「本当にありがとう」と黒い髪を掻く。
「助かったよ! マルクの体調が良くなるまでは俺が担当するんで、よろしく」
そう言っては、ホルヘは赤いリュックサックを背負いリビングから立ち去ろうとした。そんな彼の小さな肩をクカは引き留めた。
「ちょっと待ってくれ」
「はい?」
「マルクは、体調が悪いのか?」
「ああ、何か調子が優れないって言ってさ。大学も始まったばっかだってのに休んでるんだよ。何でかは……そういや聞いてねえや。何人かダチいるけど、そいつらも知らねえんじゃねえかな。マルクってあんまり自分から絡んでくタイプじゃなかったし」
ホルヘが肩を竦めつつ返す。
彼は早く帰りたがっていた。幾らクカが早めに帰宅したといっても外はとっぷり日が暮れている時間帯。若い大学生の彼だ、勉強なり遊びなりやりたいことが待っているのだろう。
そんな彼の腕を引いたまま、クカは質問を続けた。
「君は、その……マルクの家を知ってるかな」
「ええ、まあ、知ってはいるけど……どうして?」
「じゃあ教えてくれないか。礼は弾むから」
テーブルの上に置いてあった財布に手を伸ばしながら、クカはホルヘを見やった。
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