20 / 24

第20話

「……マルク」  分からない。  この感情が一体何なのか。  家族? 兄弟? 息子?  いや、そんなものじゃないだろう。  点滅する街灯の灯りが闇の中で瞬いている。  個人経営の飲食店が並ぶ通りの裏、排気ダクトから漏れ出る異臭が漂う通り。同じ国だというのに、まるで東の大国に踏み入れたような気分だった。移民が多く住まうこの街に、彼は部屋を借りているという。  地図アプリに入力したマルクの住所を元に、クカは街の中を進んでいった。マルクの部屋を示すピンはもう目前。そろそろ着く頃合いだった。腕時計は深夜近くの時間を差している。こんな時間に訪問するだなんて、常識から外れているだろうけれども。  ホルヘから聞いたマルクが住むというアパートは、夜の中から姿を現した。  古い安アパートだ。三階建てのこじんまりとした建造物で、外装と周りの僅かな庭の様子を見るに、長らく手入れが施されていない様子だった。灯りがぽつぽつと灯っているのを見るに、入居者の何人かはまだ起きているようだった。 (部屋番号は……確か……)  二〇五号室。  ホルヘは確かにそう言った。安いアパートであるからか、セキュリティらしいセキュリティは見当たらない。部外者であるクカでも共同玄関と階段を容易に抜けられ、あっという間に目的の二〇五号室の前へと辿り着いた。途中、部屋から出てきたアジア人とすれ違ったが、特に怪しまれることはなかった。他の住人に無関心なのだろう。  ドアに表札はない。  クカはノックしようとして、数度躊躇った。ドアの隙間から漏れ出る光。マルクはきっと起きているのだろう。  会って何と言おう。じじ、と虫の羽音のような死にかけの照明のノイズがクカの思考を妨げた。頭は不明瞭なままで、そうしてしばらく、外気が吹き込む廊下に立ちすくみ、クカはやっと二度ドアをノックした。  ばたん、と籠もった物音がドアの向こうから響き、思わずクカは身構えた。頭の中で造り上げた言葉は、彼がドアを開く僅かな時間の間に無残にも崩れ去ってしまっていた。  ドアが開く。  光が廊下に差し込んだ。 「……誰? 悪いけど、別にオレは常識的な範囲で生活してるからさ。音が煩いって言うなら大家に言ってくれ、壁の薄さはオレにはどうにも出来ねえからな」  目の下に隈を浮かばせた青年は、苛立たしげにそういった。チェーンのかかったドアを限界まで開き、漏れ出るのは目映い光の海。その眩しさに目を細めてクカは彼を見上げた。二人分の影が、仄暗い廊下に伸び、そして交わっている。 「マルク、俺だ。別に騒音を諫めにきた隣人じゃないよ」 「ピート……なんで、ここに来たんだよ」  チェーン越しにマルクが苦虫をかみ潰したような声でそう訊ねる。  その目はクカの視線から逃れるように、廊下の向こう、夜の街へと向けられていた。そんな彼の視線を追うようにクカは振り返り、じっと暗い街を見下ろした。  君の友達から聞いたよ。  そう答える。 「おおざっぱに場所は知ってたけど、こんな所だったなんて知らなかったな」  悪臭が鼻につく。  外のゴミ集積所の臭いが冷たい冬の風に乗って運ばれて来ているのだろう。 「…………上がってくか? 寒いだろ」 「ああ、君がそう言ってくれるなら」  お言葉に甘えて、とクカは夜の街並みからマルクへと視線を向け直した。彼はやはり、クカの視線から逃れるようにして顔を背けると、手早くドアチェーンを外した。  初めて見るマルクの部屋は、年相応の様相だった。家事代行の仕事をしているにも関わらず、彼は片付けが苦手らしい。部屋の中央に位置するテーブルを中心に散乱する何らかの資料や空のビール瓶、それからスナック菓子の袋。その中の一つ、見慣れた瓶のラベルを見つけクカは思わず訊ねていた。 「君も、これ、気に入ったの?」  よくクカがマルクの買ってくるように頼んでいた銘柄のビール。チェコ産のビール。ドイツビールほど濃くない、あっさりとした味わいのビールだった。 「え、ああ、まあ、ピートが旨い旨いって言ってたからさ」  気になって、とマルクはソファーの上に散らかった衣類を纏めてベッドへと放った。すっかり空いたそのソファーを指さし、「ここ座ってくれよ」そう言ってマルクは気まずそうに頬を掻いた。 「散らかってて悪いな。人なんて滅多に呼ばねえしさ」  コーヒー飲む?  その問いにクカはゆるりと頷き、ソファーに腰掛けた。随分と年期の入ったソファーは中身がへたっているのか、腰にスプリングの硬い感触が直に当たって、それが少し痛かった。  間もなくマルクが淹れたコーヒーが運ばれてきて、その安っぽい臭いが冷えたクカの頬を優しく撫でていった。その茶褐色の湖面に広がる波紋を見つめながら、クカはおもむろに口を開いた。 「…………この間は、その、すまなかった、と思う。君のこと、よく知らないのに、勝手なことを言って」  視線を合わせられないのはお互い様だった。  マルクは簡素な椅子に腰掛け、居心地悪そうに腕を組んでいる。クカの目は彼の首から下に向けられていた。あの赤い痕は、三週間の間に良くなったらしい。もうあの痛々しい擦過傷と内出血は遠目では認識出来ないくらいに色褪せている。  いいんだ。  同じく間を置いてマルクが答える。 「……そもそもオレが馬鹿だったんだ。ずっとストリッパーやってればいいのに。払えるくらい手に入ってたし、気まぐれに応募したのが良くなかったんだ」  ハウスキーパーの仕事をさ。  そう言って一口、クカの前に出したものと全く同じデザインのカップに注がれたコーヒーを一口。その苦みに眉を顰めては、ゆるりと続ける。 「ハウスキーパーの仕事をさ、じゃなかったら、ピートと会ってないだろ。つまり、その、あんなことも起きる筈無かったんだ」  マルクの声は言葉を紡ぐ度に次第に弱まっていった。  あの夜のことを思い出して気まずい思いをしているのだろう。  それはクカも同じだ。  マルク、とクカが口を開くと同時、彼はその長い手を掲げてクカの台詞を遮った。 「忘れてくれ、全部、この間のこと含めて全部」  その方がいいだろう?  そこでやっとマルクの黒い瞳がクカを見つめた。暖房は利いている筈なのに、彼の顔はいやに青白く見えた。 「オレはもうアルバイト、辞めようと思う。ホルヘは良い奴だし、ちゃんと仕事やってくれるよ。オレの数少ないまともなダチだし……だから――」 「でも」  伏し目がちに告げるマルクの言葉を遮るように、クカは声を上げた。彼の言葉に、身振り手振りに遮られないように、強く子音の一つまではっきりと発音するように。 「君じゃないといけない気がするんだ」  マルクが代わりに送った彼は、きっと善い人間なのだろう。  だけど、と思う。  クカはマルクの作ったスープが食べたかった。ミートボール・トマトスープが食べたい。香辛料と肉とそれからトマトのシンプルなスープ。マルクと交わったあの日の記憶と同じく、あの料理の味を忘れることは難しい。  マルクが並びの良い白い歯で、長くも無い爪を強く食んだ。強いストレスが彼を襲っている。犬歯で削るように噛んでは怯えたようにクカを見る。 「……アンタさ、ストレートだろ。家族、いたんだろ。あん時は、ほら、寝たけどさ」  ピート、とマルクは言う。酷く言いにくそうに眉を寄せて、オレは、と続ける。 「クズなんだ。どうしようにもないクズだ。ピートと一緒にいちゃいけない」  がり、と強い音がクカの耳に入ってくる。噛み千切られた指先からは僅かに血が滲んでいる。染み出た赤を舐め取って、部屋にいれなきゃ良かったな、そう自嘲するように彼は笑った。 「アンタを突き放そうと思ったのに、やっぱり難しくってさ。だって、あんなことされたら……ってか、あんなことしたら、普通、来ねえよ、こんなところ、何で来たんだよ。拒否出来るわけ、ないじゃんか」 「言ったじゃ無いか。君を――」  強く髪を掻きむしるマルクの手首を握りしめ、クカはじっとマルクの目を見据えた。  「助けたいんだ」  助けたい。  その気持ちは確かなものだ。  彼に抱いた想いが、その動機が、純粋なものだろうと、不純なものだろうと、その感情だけは確かにクカの中に生まれていた。 「分からなかったんだ。俺も正直な所は分からなかったんだ。ずっとこれが、自分が普通だって思ってたんだ。両親みたいに、奥さんをもらって、子供がいて、家があって、それが普通だって思って生きてきたから……」  両親がそうだった。彼女の家族も、周りの家族も、友人も、同僚も、デートした彼女もそうだった。  理想の家庭。クカが思い描いて失ったもの。それこそが、本来人間が得るべき最大の幸福だと信じて止まなかった。 「俺は模範的な家庭に固執してたんだ。あるべき家庭の姿に取り憑かれて……最後は失った。そうして、塞ぎ込んだ先に君がやってきた」  最初はただのアルバイトの青年だった。週に三度、顔を合わせるか合わせないかの関係。でも、彼の秘密を知って、まるで殴られたような衝撃が頭に走って、心に芽生えたこの感情。全てに目を瞑って、忘れることはきっと出来た筈だ。知らないふりをする選択肢はいつも目の前にあったのだから。  でも、出来なかった。選ぶ事は出来なかった。  マルク。  目の前で不安げにクカを見つめるこの青年。  クカはきっと彼が好きなのだろうと思った。確かめることが恐ろしくて、見つめることはしてこなかったけれど。でも、そうだろう。  そうでなくては、彼を抱くことは出来ないだろう。 「俺が君に抱いているこれを愛情というか分からない……でも、君と行きたいと思うんだ。一緒にフットボールの試合をさ。君のことをもっと知りたい。それから君の料理も食べたいな、あのトマトスープ美味しいんだ」  マルク、君じゃないといけないんだ。  クカはじっと彼の目を見つめて言った。黒曜石の瞳。そこに映る自身の瞳はどこまでも真っ直ぐだ。 「ピート、アンタって馬鹿だろ」  淡々と口にするマルクの言葉に、クカは自嘲するように笑って見せると、確かにそうだね、と口を開いた。 「俺は馬鹿かもしれないけど、君はクズじゃない。努力して、努力して……必死に現状を何とかしようと藻掻いてる。俺は、そんな君を助けたい。できる限りの力で援助したい。そう、思ったんだ」  マルク、と名を呼んだ。何度も呼んだ。  その度に彼の双眸は揺れ動いた。 「俺の家に来て欲しい。あんなショーに出るのは辞めて、俺の家に……そこでまた別の、もっとまともで、もっと安全で、――君が傷付かない場所を探そう?」  一緒に。  最後にそう締めくくって、クカは口を閉じた。マルクが注いだコーヒーに再び手を伸ばし、ゆっくりとそれを飲み干した。すっかり温くなったコーヒーの味をクカは全く感じることが出来なかった。緊張からか、味蕾が機能を失っているらしい。感じるのは締め付けるような胃の痛みと鼻孔を通り抜ける僅かなコーヒーの苦みだけ。 「……考えておいて欲しい。俺は君が好きだ。それが言いたくて今日は来たんだ」  空っぽのコーヒーカップをテーブルに置き、クカはおもむろに立ち上がった。言いたいことは全て吐き出した。初めてマルクのショーを見たあの日から、胸の内に芽生えていたこの感情を。面と裏、どちらものマルクに惹かれているという事実を。  マルクからの答えは返ってはこないけれど、それでも良かった。例え彼がこの提案を断って、あのバーへと向かうのなら、それは仕方のないことだろう。クカの心の内に爪痕だけを残していなくなってしまうのは、少し寂しい気もしたけれど。 「それじゃあ、もう、遅いから――」  おもむろにソファーから立ち上がり、クカは逃げるようにこの部屋から立ち去ろうとした。答えが返ってこないままこの部屋にいたとしても、マルクにとって迷惑だろう。彼には答えを出すまでの時間が必要なのだ。 「……待ってくれ」  玄関のドアに手をかけたとき、マルクの声が背中に降りかかった。ぱたぱたと古いフローリングの床を蹴るマルクの踵の音が忙しなく響いたと思えば、クカは強く抱きしめられていた。 「マルク?」  背中に広がるマルクの感触。  狭い額がクカの背中に擦りつけられている堅い感触。  今日は、とマルクの言葉が背後から聞こえてくる。華奢にも思える二つの腕が、クカの上着を強く握り締めている。 「一人なんだ。夜のバイトも、行ってないし……」  その、と逡巡するマルク。  だけどもすぐに次の言葉がクカの耳朶を甘く叩いた。 「もう少し、一緒に、いて欲しい。一人は寂しいんだ」  どこかで聞いたような台詞だった。  熱を出して酷く気弱になったあの時の自分によく似た声色。  それが答えかどうかは分からない。  分からないけれど、クカは頷く他なかった。その目と、その表情で訴えられたなら、断ることはクカには不可能だ。  耳障りな声を上げるベッドのスプリング。古いものなのか、大きく軋むマットレスにマルクを押し倒し、クカは彼の長い首に唇を寄せた。 「……んっ」  鼻がかった吐息が頬を掠める。高い鼻、その先にクカはそっと口付けた。  パーカーの裾から手を差し入れて、インナーと一緒に鎖骨の辺りまで捲り上げた。呼吸と共に上下する胸部、その上で輝くのは白金のピアスだ。古いアパートの狭い室内にどこからともなく吹き込む冷気に曝されて、マルクの乳首はぷっくりと存在感を示していた。乳輪の輪郭をなぞるように指を這わせれば、マルクはくすぐったそうに体を捩らせた。  白い肌の下に隠れた筋肉の流れに沿って、ゆっくりと手を滑らせていく。僅かに隆起した腹筋の谷間を通り抜け、彼の足を窮屈に拘束するタイトなジーンズのボタンに伸びた。唇はマルクの乳首を食んでいる。ねっとりと舐り、弾力のある乳首と硬いピアスの感触を楽しんだ。  ジーンズのボタンを外し、ジッパーを下ろす。自然とマルクが腰を浮かし、その隙にクカはジーンズを下ろしていった。量販店のワゴンセールにでも入っていそうな、どこにでもある下着のゴムも一緒に引き掴む。  現れるのは、下腹部のタトゥー。  彼の白い肌をキャンバスに描かれた黒のハートを模した幾何学模。男の情欲をそそる為だけに入れられたタトゥー。  初めてマルクを抱いた時の記憶と共にぞくりと背筋を這い上るのは仄暗い感情だった。

ともだちにシェアしよう!