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九
彼が出撃して10日ほどで日本は負けを認めた。たったの10日だ。私は遣る瀬無さと悔しさで身が崩れそうになった。
混乱の中東京に戻ったすぐあとに財産税が施行され莫大な税金が発生した。美術品や宝飾品を簡単に換金できるはずもなく、かき集めた金は延納の利息を払うのが精一杯。
追い打ちをかけるように2年後には華族制度が廃止された。家に喰われると恐れていたのにあっけなく法律によって家は消滅した。血を繋げる事を第一としていた父は現実に向き合えず生きる力を失った。後を追う様にすぐ母も他界し、私は一人になった。
日本全土が復興に向かい土地が高騰した。延納でしのぎ売却を見合わせていた土地を処分し一財産を手にすることになった。
私はそれから教育事業に邁進した。慈善事業ではない。教育が儲かるとなれば他者も参入し競争が発生しより多くの選択肢が生まれる。だから私は教育がビジネスになると憚る事なく発言し財を築くために働いた。
「教育が国を救う」その言葉を実現させるために。
結婚はしなかった。私にはやるべきことがあり無駄なことに時間をさく余裕がなかったからだ。はたから見れば仕事だけの寂しい人生に見えただろう。でも違う、私は孤独ではなかった。あの最後の夜は何年たっても幾つになっても昨日のことのように私の中で生き続けた。彼のような若者を生み出す社会をつくらない為にやることは沢山あり、若者が選択の自由を手にするための教育には上限などありはしない。
高度経済成長、オリンピック、様々な出来事を横目に進むべき道を切り拓いた。私は70歳を迎え、会長職を辞し疎開していたときのように流れていく時間を過ごす毎日を送っている。
遺言を含め自分の所持品の行先もすべて弁護士と相談し、私の死後は滞りなく始末ができるように物事を整えた。
だが私がこの世を去る予感はなかなか訪れなかった。
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