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嘉平
客から手渡された銭は、たったの3文。辰の刻から酉の刻まで働いてもこれだけしか貰えない。近頃、嘉平が働いている何でも屋に仕事が入ってこない。前は少なくてもひと月に十件以上は入っていたのに。今は、ひと月に十件入ればいいほうだった。
仕事がないから銭も手に入らない。だから、鬼月の元に行っても触れられないこともあった。
どうしたら銭を手に入れられるのか。銭を盗もうか。それとも、自分の身体を売ろうか。そう考えていた時だ。
嘉平の耳に届いたある噂。和泉屋の鬼月が身請けされると言う噂。
最初は信じられなかった。和泉屋にとって鬼月は稼ぎ頭だ。そんな稼ぎ頭を、簡単に身請けさせるとは思えなかった。だが、身請けする相手を聞いて嘉平の中で噂が事実だと気づいた。
どうも身請けを申し出ているのは、金貸しの義助。前々から鬼月に入れ込んでいたが、とうとうそれでは我慢できなくなったらしい。なんでも、金500両を身請けの代金として和泉屋に渡す準備はもう整っていると聞いた。
身請けされてしまったら、もう会えなくなってしまう。嘉平は、自分の持っている有り金全部を麻袋に詰めた。13文。それが嘉平の全財産で、和泉屋に入れる金額ではなかった。それでも、もしかしたら会えるかもしれない。ただその一心で走っていた。
「は?たったこれぽっちの銭で、和泉屋の敷居を跨げると思ってんのかい!!それに鬼月は身請けが決まった身だ。客なんか取らせるわけがないだろうが!!」
女に銭を投げつけられた。そして、新しく雇ったらしい用心棒の男に店の外に追いやられた。嘉平は何も出来なかった。投げつけられた銭を拾うことも、その場から動くことも。なにもしようとも思えなかった。
最後に、一目だけでも会いたかった。会えなくても、触れあえればそれで良かった。刹那でも、それだけで十分なのに。
いつしか嘉平の瞳からは涙が零れ落ちていた。和泉屋に来た客には気味悪そうに見られ、さっさと去ってしまえと言うように和泉屋の用心棒の男に暴力を振るわれた。それでも嘉平は動かなかった。
じっとその場で耐え、ほろほろ涙を流す。
どれぐらいの時、そうしていただろうか。もうだめかもしれない。痛む身体を自分で抱き締め、嘉平が地面に倒れ込もうとした時だ。誰かに抱き止められた。
見れば、如月が辛そうに顔を歪めて嘉平を見ていた。大丈夫。そんな思いを込めて笑みを浮かべれば、如月がそっと嘉平を抱き上げた。
「き、さらぎさ、」
「喋るな」
嘉平を抱き上げたまま、如月は和泉屋の裏口から中に入る。嘉平を連れて入っていると見つからないようにするためか、人目につかない道を如月は歩いていた。
そして、和泉屋の離れにある部屋の前に立つとそっと障子を開けた。
「あ…………、」
部屋の中にいた人。その人を見て、嘉平は如月の胸に顔を埋めて泣いた。そんな嘉平の姿を愛おしそうに見て、部屋の中の人は手を伸ばしてきた。
「おいで、麻袋の子」
その言葉を聞いて、如月は嘉平を床に下ろした。でも、嘉平は動こうとしない。
「おいで」
そう言われても、ただ首を振るだけ。触れたいとは思っていた。会いたいとも思っていた。でも、それが叶うとは思っていなかった。叶えてはいけないと分かっていた。
「じゃあ、俺から行くよ」
立ち上がる音が聞こえた。一歩、一歩、嘉平に近づいてくる足音がする。そしてその音がやんだその瞬間、嘉平は抱き締められていた。
「きづ、きさん」
「うん。鬼月だよ、麻袋の子」
ずっとこの時が続けばいい。そう思わずにはいられなかった。
名前は?
名前?
そう。俺は君の名前を知らないから、麻袋の子と呼ぶしかできない。
か、嘉平。
嘉平。いい名前だね。
鬼月さんも、いい名前です。
そんなことないよ。俺の源氏名は、背中の鬼が由来だ。この鬼は、俺が屑の証だ。
そんなこと、ないです。だって私は――――。
「その鬼を携えて、月の夜を走り去ったあなたを好きになったんですから」
鬼月の膝を枕に、嘉平は泣きつかれて眠っていた。そんな嘉平の髪を、頬を、身体をそっと撫でながら、鬼月は笑っていた。
「――――――――――――――」
そっと呟いた鬼月の言葉を聞いたものは、誰もいなかった。
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