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第13話 すきだけで -1
「ほら、大丈夫だから……こっち来い」
へたり込み、ただ荒い息を吐くばかりの腕が掴まれ、力強く引き上げられる。見上げた先には、どこか猛禽類のような鋭さを思わせる美丈夫が、一人。普段は見る者を畏怖させているのであろう鋭い瞳は、今は酷く穏やかに緩んでいて。
大丈夫だと言って頭を撫でてくれた手は、とても大きく、温かかった。
ふっと意識が浮上する。そのまま抗わずに目を開ければ、映るのは見慣れた天井。時計を見ればまだ五時で、しかしまた眠りにつく気にもなれず、久谷はベッドから起き上がった。
――懐かしい、夢を見た。
懐かしいといっても、たった二年前のこと。しかしまだ十八年間しか生きていない高校生にとって、人生の九分の一をも占めるその年月は、やはり長く感じるものだった。なによりあの日こそが、高校生活のすべての始まりだったといっても過言ではないから、それがとても感慨深いせいもあるだろう。
二年も、経った。あの時から、少しは成長しただろうか。なにか得られたものがあっただろうか。具体的ななにかを考えようとして、しかし上手くいきそうになくてやめた。あの時よりも強くなれたとか、自立できたとか、そんなこと、あり得なかったから。
まさか自分が、こんなにも簡単に逃げ出すようになるなんて。他人につけ込むのが上手くなるなんて。そんな風になるなんて、あの時は欠片も思っていなかった。
「……変わっちまったなあ」
洗面所で鏡に写る自分を見ながら、誰に言うでもなくぽつりと呟く。自分と同じ動きをするそれを見て、「お前誰だよ」なんて、中二臭い台詞はさすがに言えないけれど。だけど確かに、そう問いたいくらいには、自分が自分ではないようで。
晒けだされた上半身のあちこちに散る赤い痕。それをつ、となぞる、自分だとは思えない鏡の中の男は、しかしこちらに合わせて瞬きをする。だから多分、その男は、自分で。自分自身で。
しばらく見つめ合ったあと、それから目を逸らすように、思いきり顔に水をかけた。
あれは高校一年の春、編入したての頃だった。
父の仕事の関係でこちらに越してきた桐生を迎えたのは、偏見と自惚れに満ちた学園、驚くほどに豪華な校舎と驚くほどに嫌味な生徒たち、そして彼らが脈々と受け継いでいるとち狂った因習。それらのおかげで、入学間もない時点ですでに、この学園のことが、ヘドが出るほどに嫌いだった。
高校から一気に規模の大きくなるこの学園において、編入自体は珍しいものではない。だから高校編入組は、桐生以外にだって大勢いたはずだった。それなのに、桐生ばかりが騒がれた理由。それは、この学園で最重視される要素――容姿、家柄、頭脳のすべてを、彼がハイレベルで兼ね備えてしまっていたから。
外見を騒がれるのも、家柄を褒め称えられるのも、暴露されていた編入試験の成績を賛美されるのも、慣れているはずだった。だからまさか、あんなにも不快な気持ちにさせられるとは思っていなかったのだ。
人はこんなにも打算的になれるのかと。当たり前のような顔をして取り入ろうとできるものなのか、と。
顔か、金か、家柄か、はたまた学園での未来の地位か。高校生のはずなのに、なにかにしがみついてやろうという魂胆で近づいてくる人間ばかり。それが当然で、寧ろそういう行動をとった方が将来的にのし上がっていく見込みのある人間なのだと、そんな屑みたいな考え方をしている生徒ばかりで。
まだ入学して一ヶ月ほどしか経っていないというのにこれ以上もないほど学園を嫌悪していた桐生は、毎日のようにどうしたら辞められるかしか考えていなかった。
『……え、お前こんなところでなにしてんだ?』
そんな時に彼を救ってくれたのは、とても温かい手の持ち主で。
打算的な生徒たちに追いかけられるのはいつものことだったが、あの日はいつもと少しだけ違った。おそらく本気で体目当てだったのだろう。暗く狭い部屋へと無理やり押し込められそうになった桐生は無我夢中で抵抗し、間一髪のところで逃げ出したのだ。しかし途中で切れたエネルギーと、逃げきれたという安堵感で廊下にへたり込んでしまった。そんな桐生にかかったのは――低く、優しく、甘やかな声。
『っ、近寄るな……!』
『ちょ、落ち着け、そんな威嚇すんじゃねぇよ』
好意という名の暴力未遂の直後で過剰に反応し、警戒するように反射的に身を引いた桐生。それに危害を加えるつもりはないとアピールした腕は、その逞しい外見に違わず軽々と桐生を引き上げた。
宥めるように「大丈夫だ」と繰り返すその声は、酷く優しくて。必要以上には触れずに頭を撫でるだけのその手は、酷く温かくて。じんわりと、桐生の胸に沁みわたっていった。
『久谷様あ~?』
『ああ、今行く! ……悪い、ここまでだ。大丈夫か?』
しかしそれも僅かな時間で、遠くで彼の名を呼ぶ声に、あっさりと離れていく手。
素直に名残惜しく思いながらも顔を上げれば、予想以上にキツく整った顔がこちらを見ていて。そういえば今初めてまともに顔を見たなと思いながらもう大丈夫なことを伝えれば、切れ長の鋭い瞳が、「ならよかった」と、その見た目からは想像できないほど、驚くほどに柔らかく笑った。
その瞬間、大嫌いだった学園が、あっという間に鮮やかに色づいて。灰色だった世界が、色のなかったはずの世界が、見たこともないような美しい景色へと変わって。
――急に、信じてみたくなった。
こんな男がいるのなら、この学園も悪くないのではないのかと。見ようとしなかっただけで、悪いところばかりではないのかもしれないと。
それほどに〝くたにさま〟は、世界を一瞬で変えてくれたのだ。
まさかその〝くたにさま〟が、すでに学園一の下半身男として名を馳せている男だとは、まともな友達がいなかった桐生には知る由もなかったのだけれど。そしてこのあと、当時の会長に見初められて入った生徒会と、よりによって彼の所属する風紀委員会があからさまに対立しているだなんて、これっぽっちも知らなかったのだ。
「……そうだ、書類……」
身支度を終えたところで、仕事が残っていたのを思い出す。昨日帰りがけに会計に渡されて、しかしそのあとすぐに仁科のところに行ったから帰ってきても確認する気にはなれず、後回しにしていた書類のことを思い出す。授業の前に終わらせるつもりだったが、今なら時間もあるし、ちょうどいいから済ませてしまおうか。
早速リビングへと戻ると、なぜか床に散乱している書類の出迎えを受けて小さく笑う。ひとまずすべて拾い上げて揃えていると、ひらりと中から落ちてきたかわいらしい小さなメモ。そこにピンクのインクで書かれた、「首筋のキスマークがとってもセクシー☆」という会計からのメッセージに苦笑した。
ようやく思い出してきた。そういえば昨日は、仁科に抱かれて帰ってきた直後にこれを見てしまって、笑い飛ばせる余裕もなく、怒りを込めて床に叩きつけたのだっけ。
「だっせえなあ」
自分の余裕のなさに呆れたため息を吐きつつ、こんなメモをわざわざ残すあのチャラ男にも、ため息を吐きたくなった。
最近は、仁科に抱かれることでさえ、罪悪感だらけだった。
彼は桐生のことばかりを考えてくれるから。桐生の望む通りにしてくれるから。そんなことをしてもらえる価値などないというのに、仁科はどうしようもなく、桐生のことを甘やかした。
このままでは自分がダメになりそうで、仁科までダメにしてしまいそうで、酷く苦しくて。だけどどうすればいいのかわからない。無償で与えられる優しさを、このぬるま湯のような居心地のよさを拒絶できるだけの強さが、なくて。
うじうじと女々しく悩むのは自分らしくない。らしくないのはわかっているけれど、しかし久谷との思い出を振り切ることも、仁科との今を振り切ることも、桐生にはまだ、できそうもなかった。
『――久谷様が、セフレを完全に切っているそうですよ』
あの言葉だって、仁科がどんな意図で言ったのか、桐生は未だにわかっていない。
あの後から次第にあれと同じような噂も囁かれ始めて、理由は久谷に本命ができたからだとも言われていた。ただ、その本命を久谷は誰にも漏らさず、その分好き勝手に色々な憶測を呼んでいる。
もちろん久谷の本命候補のリストに並ぶセフレたちの名前の中に、桐生の名前はなかったけれど。当然だ。他の生徒にとってみれば、犬猿の仲、まして彼のセフレであったことなど、想像もしていないだろうだから。
仁科はなにが言いたかったのだろう。久谷に本命ができたのだと、もう諦めろと言いたかったのだろうか。それとも桐生のためにセフレを切り始めたとでも言いたかったのか。
仁科は優しい。だからきっと、久谷に本命ができたのならはっきり口にすると思う。もう見込みはない、諦めろ、と。しかし、だからといって後者だとは考えにくかった。では、いったい他にどんな意図があるのか。それが、桐生にはまだ見つけられない。
彼はなにかを知っている。自分が聞けば、最終的には答えてくれるだろうとも思う。けれど桐生は、知りたいくせに知るのも怖くて、聞くことができずにいた。
「……たく、あの野郎」
書類の所々に入っている手書きの落書きにチェックの手が止まる。しかも内容はあの男らしく、セックスの話ばかり。おまけにすべて、要するに俺とヤろうという誘いで、欲望に忠実すぎるそれに桐生は思わず笑ってしまう。自分の悩みが馬鹿みたいに思えてきて、もう一度声をあげて笑った。
――欲望に、忠実に。
本当に自分のことだけ考えていいのなら、自分はどうするだろうか。自分の欲に忠実になったら、誰を選ぶのか、選ばないのか。
久谷か、仁科か、それともそれ以外か。
今でも一番好きなのは、もちろん久谷だ。久谷を追い掛けて、好きだと告げて、好きになってもらえる努力をする。きっとそれが、本当の欲というものに忠実な選択なのだろう。
だけどそう思うのと同時に――きっと自分が一番素直でいられるのは、楽をできるのは、仁科なんだとも思う。久谷を選んでつらい思いをするくらいなら、久谷に片想いしたまま仁科に愛されたいと、そう願う自分に吐き気がした。
結局は自分だって打算的なのだ。自分のことしか考えられないような人間なのだ。二年前のあの頃、自分自身が忌み嫌い、蔑んでいた人間に、いつのまにかなっていた。変わってしまっていた。
そんな自分がいることなど知りたくなかった。気づかずにいたかった。けれど想い人以外からの赤い痕が残る体を映す鏡は、見て見ぬふりも許してくれずに現実を突きつける。
「……俺は、どうすればいい……」
ぽつりと落ちた、自分自身への問い。
このままでは、逃げてばかりではダメなのはわかっている。俺はどうすればいい。俺はどうしたい。
自分にしかわからないはずなのに、自分自身でも出せない答え。ピンク色の字が躍るメモを見つめながら、桐生は小さく頭を振ったのだった。
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