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第14話 きらいであっても
――カチャンッ!
部屋に響く陶器が割れる音。不可解な胸騒ぎ。
自分の手からあっという間に滑り落ち、一瞬前の姿とは変わり果ててしまったカップを、久谷はただ、ぼんやりと見つめていた。
「久谷様! 大丈夫ですか、お怪我はっ?」
「……あ、ああ。俺はなんともない」
掛けられた声にはっとする。
慌てて駆け寄ってきて、怪我を確認するためにとられる手。男のものとは到底思えない白く細長い指が、丹念に確認するようにするりと手を撫でる。怪我がないとわかると、彼は顔を上げて、よかったと花が綻ぶように笑った。
「や、俺よりカップが……綺麗だったのに悪かったな」
「いいえ。久谷様にお怪我がないのならばそれで十分です」
そう言って、なんでもない風に笑う。しかし、確かにそれは美しいカップだったのだ。
染みも傷もない真っ白なカップの縁と持ち手に、金の装飾が施されたそれ。シンプルで、しかし気品のある美しさは、華美な装飾がなされずとも自らだけで輝くようで、無性に惹かれた。よく見てみたくて手にとって、回してみようとしたところで――それはするりと、久谷の手から抜け落ちたのだ。咄嗟に掴もうとした手は空を掴み、そしてすぐに無機質な音が部屋に響いた。
紅茶はすでに飲み終わっていて、中身が入っていなかったのは不幸中の幸いか。しかし、なぜだか久谷の心にはしこりが残る。
「久谷様に綺麗と言っていただけて嬉しいです。シンプルながらも気品があって美しくて……なんだか勿体なくて、私にはなかなか使えなかったんです。せっかく気に入って買ったのに、宝の持ち腐れというか」
「いや、寧ろ価値のわかる人間に買ってもらえてよかったんじゃないか? というか本当に、そんな大切なものを……」
「いえ、結局私には使えなかっただろうから。この美しさがわかってくださる久谷様に、最後に使っていただけて本望ですよ」
さらりと言われた言葉。それに久谷は曖昧に笑むしかない。そんなに買い被られても、嬉しさよりも戸惑いが勝ってしまうのだ。いつの間にか〝例外〟が増えていたことといい、自分を卑下するつもりはないけれど、彼らがどういうつもりで自分を崇め奉るのか、正直よくわからなかった。
割れた破片を回収するのを手伝いに、その隣に腰を屈める。それになぜだか生暖かく微笑まれて、久谷は思わず顔を顰めた。
手に取る欠片はやはりどれも美しく、惜しいことをしたと思う。もう少しだけ見ていたかった。もう少しだけでも手にしていたかった。しかし持ち主さえ使うのを躊躇うなんて、なんて罪作りなものか。
誰もが認める、余計なもののない真っ直ぐな美しさ。皆が手にしたいと思いながら、しかし手を伸ばすことさえ躊躇するような。
それは、まるで――……
「って、」
「あっ! 大丈夫ですか、今手当てを……!」
ふっと脳裏に過った漆黒。瞬間、持ち上げた破片が指の上を滑った。
――名前を、呼ばれた気がした。
指先に綺麗な赤いラインが刻まれる。つ、と真っ赤な雫が端から垂れるのを見ながら、わけもなくざわつく胸。ばたばたと戻ってきた男が、傷を手当てしようとしているのを、ぼんやりとどこか遠くから見つめているようで。
(大丈夫、だよな……?)
自分でもわからないどこかへと意識を飛ばしつつ、自分に言い聞かせるように心の中で呟く。なにが大丈夫なのか、大丈夫ではないのか。理由もわからずただ無性にざわつく胸に、久谷はぐっと眉を寄せた。
「それでは久谷様、ご武運お祈りしております」
「ご武運って……なんだそれ」
「なにってそりゃあ、ねえ?」
意味深に笑いかけてくる視線から逃れるようにふいと顔を逸らす。背中からくすくすと聞こえる笑い声に、久谷は不機嫌そうにがしがしと頭を掻いた。
すべて見透かされているような気がして居心地が悪い。彼は久谷が感嘆するほどに頭が良く、駆け引きの塊のような会話が楽しくてよく誘っていた一人だったが、こうなるとそのスマートさが憎かった。頭の回転が早すぎる人間は話し相手だからいいのであって、探られる相手としては最悪だ。
「今までとっても楽しかったですよ、ありがとうございました」
「ああ、俺もだ。最後がお前でよかったよ」
「ふふ、それは光栄です。これからもお体が寂しくなったら慰めてさしあげてもいいですよ、もちろん貸しですが」
「いや、それは遠慮させてもらうわ。お前だけには借りは作りたくねえ」
薄幸そうな綺麗な顔でえげつないことを言う男に顔を顰める。彼には本当に、隙を見せられない。借りなんて作ったら、なにをさせられるかわかったものではなかった。
しかし、最後だ。これで本当に最後。今手に持っているスマホは、たった今から、もうなにも登録されていないただの箱となる。かけられる番号もない無用の長物。
ようやく、だ。思いがけず人数が多かったうえにセフレ解消自体に苦労した相手も少なくなかったため、予想以上に時間がかかってしまった。しかし、ようやくここまできた。
これでやっと、桐生に会いに行ける。たとえ彼が久谷のことをなんとも思っていなくとも、彼に何人セフレがいようとも、関係なかった。これからたっぷり時間をかけて口説き落としてやればいい。誰になんと言われようと、なんと噂されようと、いくらでも追い掛けてやろうではないか。
「あ、そうだ、桐生様と言えば」
「ああ……?」
「……そんな怖い顔なさらないでください。そりゃあわかりますよ、貴方が思いを寄せる相手くらい。もちろん言い触らさないのでご安心を」
すっかり意識が桐生の方にいって浮かれていたところに投下された爆弾。穏やかに笑って安心させたと思いきや、さらりと「脅しに使うかもしれませんけど」と笑われて顔が引き攣った。
「あ、でも私が最後ということは、もうアプローチしに行ってしまうんですよね? だったら脅しにも使えなくなるな……早くしなきゃですね」
「お前な……」
真剣な顔でそんなことを宣う元セフレ。冗談に聞こえないそれに、久谷は渇いた笑いを零すしかない。
この男の場合、久谷のことが好きだからよく見ていてわかったという理由ではなく、弱みを握ろうとして観察していた成果なのではないかと本気で思えてしまうから、シャレにならないのだ。
「まあそれは冗談ですけど」
「……どうだか」
「ふふ。でも少なくとも、自分が貴方の特別なのだと信じて疑わないような狂気的な方々よりは、冷静に貴方を見ている自信はありますから」
「狂気的な方々、ね……」
あっけらかんとそう言って、茶化すように肩を竦める。誰もが彼のようだったら楽なのに。もちろん、セフレとしての話だけだけれど。
もっともセフレだなんていって、本気で想っているわけでもない人間とセックスできる方がずっと狂気的なのかもしれなかった。終わりだと聞いて縋りついてくる方がよほど健全で、正常なのだろう。
「……ああそう、それで、桐生様なのですが」
「なんだよ」
「少し、まずいかもしれませんよ?」
「は?」
「あの方は、最近、目に毒過ぎます」
「……はあ?」
深刻そうな顔をしてなにを言い出すのかと思えば、あまりに突拍子もないことで。なにを言っているんだと久谷が眉を寄せれば、彼はうーんと唸りつつ少し困ったように笑った。そうして、ゆるりと首を傾ける。
「久谷様は、最近の桐生様のご様子を?」
「いや」
「そうですか。うーん、そうですね……桐生様は、最近とても悩ましいというか、おかしな気にさせるような色気があるというか……もちろん今までも色気のある方でしたが、今はさらに艶やかなんです」
「は……?」
「だから、色々とまずいんじゃないかと。久谷様ものんびりしていない方が……」
なにが言いたいのかわかるような、わからないような。主旨がはっきりと掴めないままで、さっきから馬鹿みたいな返事しかできない。そしてようやく忠告がその口から出掛けたとき――久谷のスマホが、高らかに鳴り響いた。
「っ、悪い」
「……いいえ。どうぞ」
手にしていた空っぽのスマホではなくポケットから取り出したそれに表示されていたのは、最近ずっと、一方的にメールを送り付けてきている名前。こちらのスマホに移ってからはすべてメールで、一切電話をしたことはなかった。それなのに突然きた着信に、妙な胸騒ぎがする。さっきの胸騒ぎも思い出されて酷く嫌な予感を抱きながら、久谷は慎重に指を滑らす。そうしてコール音を止めた機械から間髪入れずに飛び出してきたのは、酷く焦った声だった。
「はい」
『久谷様!? 久谷様ですかっ!?』
「ああ俺だ。どうした、なにかあったのか」
久谷の名前を呼ぶのは、今まで聞いたことのないような切羽詰まった声。騒ぐ胸を抑え込みつつ発した声は、予想以上に感情を抑えた低いものとなる。スマホを握る手に力が籠った。掌にじとりと汗が滲む。
『桐生様がっ、桐生様が連れ去られました!』
「はっ? どういう、」
『生徒二人が桐生様を無理やりどこかに! ごめんなさい、僕遠くて、追い掛けられなくて……!』
「――っ」
ドクリ。大きく脈打つ心臓。
まさか、まさかそんな、はずがない。第一、元々桐生はする側であって、される側じゃないはずだ。基本的にタチだったはずなのだ。だから大丈夫。きっとなにかの見間違えに決まっている。だってそうじゃなきゃ、そうでなくてはならないから。だから、大丈夫。
――だけど、自分のような人間がいないと、どうして言える?
その自分への問いには答えようとしない頭。そうしている間にもどんどんと血の気が引いていく。最悪を想像しようとする自分を誤魔化すように、大丈夫、大丈夫だと自分に言い聞かせながら口を開いた。
「……いや、ほらそれ、桐生のセフレだろ」
『違います! 桐生様は抵抗なさってました! 見間違いなんかじゃない! それに……っ』
ドクンドクンと心臓がうるさい。カラカラに乾いた喉が、唾を飲み込む音をたてる。
『それに、桐生様にセフレなんて、一人もいません……!』
喉から絞り出すように吐かれた言葉。
その言葉が耳に届くと同時、久谷は走り出していた。
第14話 きらいであっても 完
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