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第16話 きらいならいっそ

 切れる息。噴き出る汗。逸る気持ち。  悪い方向にしか向かわない予想に、苦しいほどに焦れる思い。生きた心地がしなかった。しかし狂いそうなほどの焦燥を嘲笑うかのように、一向に探し求めている人物を見つけられることはなく、ただただ時間だけが過ぎていく。 (頼むから、頼むから無事でいてくれ――……)  目が眩むような怒りと焦燥。蹴り開けた十五個目の扉の先にも人影はなくて。絶望したくなるような自分の無力さに、泣きたくなった。  血の上りきった頭でも、しかし衝動に任せて携帯を切らずに、少しでも情報を聞くくらいの冷静さはなんとか持ち合わせていた。走りながら、「場所は!」と怒鳴るように声を荒げる自分に廊下にいた生徒たちの目が集まっていたのはわかっていたが、そんなことを気にしていられる余裕はなかったけれど。 『桐生会長が無理矢理連れてかれていたのは、特別棟の三階の廊下でした……!』  告発してくれた声の示す情報を頼りに大体の目星をつけて、そこからはもう手当たり次第に扉を蹴り開けていた。他の風紀委員にも連絡はしたから、今頃総出で特別棟を中心に走り回っていることだろう。  早く見つかってほしい。早く見つけたい。早く連絡がほしい。  しかし同時に、見つからないでほしいと、このままなにもなく、見間違いで終わってほしいとも、心の底から、そう願う。  これが、取り越し苦労だったら、どれだけいいか。 「委員長!」 「見つかったか!?」 「いえ、この階のこちら側には誰もいませんでした!」  向かいから走ってきた樋口。報告を促せば、彼は顔を歪めて否を告げる。  ならば、この階に――特別棟三階に残っているのはもう、今目の前に立っている教室だけで。  そう理解した瞬間、ひゅっと喉が音を立てた。ドクドクと逸る心臓。情けなく震える手。  ぎゅっと自分の手を握りこんだ久谷は息を詰め、ドアノブへと無理やり震えを抑えこんだ手をかけた。 「――……!」  扉を開く。瞬間、嗅覚を刺激する臭い。頭を過った最悪の予想にぎりっと歯を食い縛り、怯みそうになる自分を叱咤して中へと踏み込んだ。  一見、室内に人影はなかった。もうここで、踵を返してしまいたかった。なにもなかったと、勘違いだったと安堵して帰りたかった。  しかし、部屋の中央に鎮座するベッドに横たわっていたのは――紛れもなく、探し求めていた人物で。 「き、りゅう……っ」  土気色の顔色をして、死んでいるかのように静かに横たわるその姿に、声が、掠れる。  樋口が後について中へと入ってくるのを背中で感じながら、久谷はふらりと桐生の傍まで寄っていった。泣き腫らしたようにやつれている顔に、お情けのように掛けられたタオルケットくらいでは隠しきれない、その上からでも嫌というほどわかってしまう、濃すぎる情事の痕跡。  喉をなにかがせり上がってくる感覚にえづきそうになる。視界が真っ赤になりそうで、震える息で、深呼吸をした。  きっと今は、まだこの体を覆うものを剥がすべきではない。スマホ以外なにも持っていない以上、救護班が来るまではなにもしてやれないし、まさかこの状態の桐生を運び出すわけにもいかない。  それに、今ここで桐生の体の現状を見てしまったら、自分がなにをするかわかったものではないから。  千切れるくらいに唇を噛み締め、そっと桐生の唇に手を当てて呼吸を確かめる。まさか、本当に死んでいるわけがないとは頭ではわかっていつつも、微かに、けれど確かに掌に触れる空気の動きに心底ほっとする。安堵で吐き出した息は、大袈裟なほどに震えていた。 「……委員長?」 「…………なんだ」 「他の委員に連絡を入れました。救護班がすぐに来ます。それと、まだ怪しい輩は目撃されてないそうです」 「……そうか」  静かに告げられる報告に上の空で答えつつ、さらりと桐生の前髪を撫でる。露になった端整な顔は、酷く疲弊し、憔悴しきったもので。  違わなかった予想。  どうしてもっと早く見つけられなかったのか、もっと早く助けられなかったのか、防げなかったのか。  桐生の変化に、生徒会長とはなんの関係もない、ただの一般生であるあの彼(セフレ)でさえ気づいていたというのに。それなのに自分は、なにも知らずにのうのうと、一方的に想い、焦がれ、自己満足な行動しかとれず――好きな相手一人、守れない。  本気で好きなのだったら、自分のことばかりではなく、まず桐生のことを、ずっとずっと気にかけるべきではなかったのか。そうすれば、桐生がこんな目に合うことなど、なかったかもしれないのに。 (今さら気づいたところで、遅えんだよ……っ)  悔しさと怒りに震える拳を、ギリギリと握りこむ。自分の無力さに吐き気がした。  なにもできず、ただ待つだけの状態が続くのに耐えられそうもなかった。なにかしていなければ気が狂いそうだった。風紀委員長として、なにか、やることを。そう、立ち上がろうとした、そのときだった。 「――……」  固く閉じられていた目蓋が、ふるふると僅かに痙攣した。そうして酷く重たそうに、しかし確かにゆっくりと持ち上がっていく。ドクリと大きく跳ね上がる心臓。現れた黒曜石のような瞳に、久谷は思わず、大声で彼の名前を呼んでいた。 「桐生!」  ぱっと身を乗り出し、手を頬に添えながら名前を呼んで覚醒を促す。呆として、なかなか焦点の合わない瞳。それはしばらくふらふらと宙をさ迷ったあと、ゆっくりと緩慢な動作で久谷へと向けられる。  まだ焦点の合っていないような弱々しい瞳は、しかし視界の中に人影を認めた途端、すべてを拒絶するかのように硬いものとなった。 「っ、俺に触るんじゃねえ!」 「ちょっ、おい!?」 「俺はてめえらの玩具じゃねえんだよ!」  目の前の人物から逃げ出そうとして、闇雲に暴れだした桐生。激しく動いたせいで、辛うじて隠れていた上半身が露になった。  パサリと落ちたタオルケットの下、晒される、擦られすぎて赤くなった肌。至るところに散っている、キスマークと呼ぶには忍びない噛み痕。そして――体中に飛び散り乾いている、白濁。  それを目にした瞬間、今度こそ、視界が真っ赤に染まった。吐き気を催すほどに激しい怒りと憎悪に駆られながら、しかしぐっと堪えて暴れる桐生を抱き締める。渾身の力で逃れようとする桐生に殴られながら、罵倒されながら、それでも宥めるようにしっかり抱きとめる。なにがあっても離してやるつもりはなかった  抱きかかえるように押さえながら、久谷は、ある言葉を紡いだ。 「っ、やめろ! 俺に触るな! それ以上近寄るんじゃねえ……!」 「大丈夫……桐生、もう大丈夫だから」 「や、離れろ! もう、もう嫌だ……!」 「っ、桐生、大丈夫だから……っ」  もう嫌だ、と震える声に、涙が零れそうになった。  叩かれども突っぱねられども罵られども、絶対に離してなどやらなかった。そうして「大丈夫」の言葉を掛け続ける。それは、桐生に初めて会ったときに掛けたものと同じで。  抱き込んで優しく頭を撫でながら、落ち着かせようと言葉を繰り返していると、次第に弱くなっていく抵抗。少しずつ抵抗に戸惑いが見え始める。そうして徐々に落ち着いてゆき、やがて、体の動きさえ止まった。  もう大丈夫かと上体を少し持ち上げると、呆然と、いや愕然とした表情で見上げてくる桐生と、やっと目が合って。確かに自分の姿を映すその瞳に酷く安堵した久谷は、口元を緩めた。 「……戻って、きたな」 「あ……え……?」 「ほら、もう大丈夫だ」 「え……なんで、くた、に……?」  驚いて見開かれた目。ぎこちなく言葉を紡ぐ以外、呼吸さえ止まったかのように微動だにしなくて。  そして、一瞬前までは怒りと拒絶しか示さなかった桐生は――しかし久谷である認識した途端、その瞳に初めて怯えを走らせた。 「あ……や、いやだ……っ」 「おい、桐生?」 「や、見るなっ! いや、いやだ、俺に近寄るんじゃねえ……!」 「え――……」  言葉を失った。  まさか、正気に戻ってまで、こんなに拒絶されるなんて思っていなくて。確かにその瞳に自分を映しながら、それでもはっきりと拒絶してくる桐生に。むしろさっきよりも激しい拒絶を示すその姿に。久谷は動けなくなってしまう。 「近寄るな……いっ!」 「おい、大丈夫か!?」  体は酷く辛いであろうに、その重たい体をずりずりと引き摺ってまで久谷から離れようとする桐生。その目は、久谷に対する怯えを、恐怖を確かに映していて。  不特定多数の男、ではなく、明確に久谷だけに対して示された拒絶。  あまりの衝撃で固まっていた久谷の体は、しかし無理やり体を動かした故の痛みに顔を歪めた桐生へと咄嗟に手を伸ばしていた。 「っ、触るな……!」  伸ばした手。しかしそれは、鋭く乾いた音と共に跳ね上げられる。  信じられないもの見るように、汚らわしいものを見るように突き刺さる、愕然とした視線。桐生の視線は久谷の手から庇うように、逃げるように、自分の手を守る桐生。その体は、隠しようもなく震えていた。 「――仁科を、仁科を呼んでくれ……!」  ついで、震えるよう唇が紡いだ名前は、自分のものではなく。久谷は、目の前が真っ暗になっていくのを感じた。 第16話 きらいならいっそ(いってほしかった) 完

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