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第18話 きらいになんて-1
目眩がする。耳鳴りがする。足元が覚束ない。
桐生の声に動いた樋口からの呼び出しを受けた、次の瞬間には現れていた生徒会長親衛隊の親衛隊長。顔面を蒼白にして現れた彼と、そしてばたばたと入ってきた救護班と入れ替わりに部屋を出る。
誰かに声を掛けられてようやく動き出した久谷は、彼らがやってきたのを認識する余裕はなかった。なにも考えられず、外で待機していた部下に促されるまま、足だけは風紀室へと向かう。
なぜ、と、それだけが頭を回っていた。
なぜあそこまで怯えられなければならなかったのか。なぜあそこまで逃げられなければならなかったのか。なぜあそこまで拒絶されなければならなかったのか。
まるで、世界のすべてに否定されたような気分だった。
今の久谷の世界は、桐生がすべてだった、のに。
そもそも久谷は、普通に考えれば風紀委員長に選ばれるようなお綺麗な人間ではなかった。それは自他ともに認める事実。歴代稀に見る、怠惰で俺様で、どうしようもなく爛れた生活を送る委員長。元々がそんな人間だったから、人から批判されることや、拒絶されることには慣れていた。
この学園は少々、いや、かなり特殊な空間だった。狭い世界の中で展開される、えげつないまでのスクールカースト。その中で、目の肥えた生徒たちのお眼鏡に適ってしまったほんの一握りの人間は、本人が望む望まぬに関わらず、神かなにかのように崇められ、讃えられた。そしてその一方で、生徒達の過剰な期待や勝手な想像にそぐわなければ、理不尽に失望されて手のひらを返したように批判され、否定されるのだ。強引に引き上げられたステージでは、一般生からの、学生とは思えないような酷くシビアな視線に晒された。
あまりに歪な世界。中にはそれに苦しむ人間もいるようだったけれど、幸か不幸か久谷はそんな柄ではない。だから、歪であると知りながら、変えられる可能性のある立場にいながら、しかしそれをどうにかしようとは思わなかった。郷に入りては郷に従え。それがこの学園の伝統だというのなら、それで構わなかった。その中で生きていけばいいだけの話なのだから。
こんなにも親の加護がある生温い環境で、たったそれだけのことで生き残れなければ、それまでだったということ。もちろんいつかはこれに抗い、声を上げる人間が出てくるかもしれない。その行為や可能性を否定するつもりはないけれど、でもそれは、少なくとも自分ではなかった。
そう、だから本当に、批判されたって、中傷されたって、拒絶されたって、気にしたことなどなかった。そんなものは些細なことで、なんともないはずだった。誰になんと言われようと聞き流して、いつだって自分であれる人間の、はずだったのだ。
(それ、なのに――……)
相手が桐生だというだけで、こんなにも、痛い。
たった一言、いやだと言われ、そうして逃げるように、助けを求めるように他の人間の名を呼ばれた。たったそれだけのこと。しかしそれだけのはずなのに、どうしようもなく、痛くて。苦しくて。
拒絶されることがこんなにも辛くて、怖いことだなんて、知らなかったんだ。
「あ、委員長!」
「おかえりなさい」
「あ……」
「大丈夫ですか? ほら、中、入りますよ」
いつの間にか着いていた風紀委員室。無意識に扉を開いたところで立ち止まっていたらしく、後ろについて来ていたらしい樋口に背中を押され、なんとか部屋の中まで足を動かす。
樋口も一緒に帰ってきていたことにさえ気づいていなかった久谷は、せめてもの反応として、辛うじて微かに頷く。こちらに注目している部下たちへと視線を巡らすと、この部屋ではイレギュラーな顔を見つけてぱちりと瞬いた。
(……ああ、そうか)
事情聴取、だ。被害者は見つかったものの、加害者の足取りは全く掴めていない。あの部屋にも、特にこれといった証拠はなかったと、誰かが言っていたのを聞いた気がする。であるならば、今のところ唯一の目撃者に話を聞くのは当然の流れ。
あまりのショックのせいか、犯人のことさえ、今の今まですっかり頭から抜け落ちてしまっていた。すべて忘れて自分のことしか考えていなかった自分が、あまりにも滑稽で笑えてくる。まだこの件はなにも終わっていない。そんなことさえ忘れ去って自分の色恋沙汰の方ばかり気にするなんて、愚か者以外の言葉が見つからなかった。
「……俺がする」
「はい?」
「こいつの話は俺が聞く。隣行くから、お前らはついてくんな」
「え、でも」
「雨宮、お前はこっちだ」
困惑する部下を余所に、目撃者であり通報者である雨宮を立ち上がらせた。隣の仮眠室へと向かわせながら、手伝うとする部下たちに「いらない」とだけ言って断ってしまう。
「なにかわかったら、すぐに連絡する。それまでお前らは他に目撃者がいないか、怪しい奴はいなかったか、探しておいてくれ」
「委員長、」
「……頼んだぞ」
「あ、ちょっと!」
久谷の気持ちを唯一知っている樋口がまだなにか言いたそうなのに首を振り、真っ直ぐに見つめてあとを託す。そうして躊躇している華奢な背中を押して、仮眠室へと強引に押し入れた。ガチャリと扉を閉めて、食い下がってこようとする声を強制的に遮断する。そうすれば、高性能の防音機能のおかげで、すぐにシンとした静寂が部屋に広がった。
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