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第19話 すきであることさえ -2

「桐生様、私は、貴方に幸せになっていただきたいのです」 「それなら……っ」 「なにかを諦めたり、遠慮し、妥協した末の幸せではなくて……貴方にとって最善の、最後まで諦めなかった末の、幸せを」  その末が私だと仰るならば、その時は喜んでその手をとりますが。  そう言って笑った仁科は、少しだけ後ずさって桐生から距離をとる。体をずらした仁科の向こうに見えたのは、外へと続く扉で、桐生は唇を噛み締める。  あそこを抜けて、久谷の元へ行けとでも言っているのか。そうしてまずは久谷にぶつかってみろと。もしそれでダメだったなら、戻ってこいと。そうした結果、仁科を選ぶというのなら、それを受け入れてくれる、と。  そう、言いたいのか? (――そんなの、できるわけがない)  これまで散々甘えてきた。彼の自分への気持ちにつけこんで、散々いいように使ってきたのだ。  仁科がどんな気持ちで自分を抱いているかなんて見ないふりをして。そうしてずっとずっと甘やかして、傷つかないように守ってもらってきたから。こちらのことばかり優先して、自分を殺してもらってきたのだから。  だからもう、そんなわけにはいかなかった。今まで散々甘えてきたくせに今更自分勝手なのは重々承知だけれど、それでもこれ以上、仁科に苦しい思いをしてほしくなかったから。 「無理に、決まってんだろ……」 「……なぜ、です?」 「俺が、どれだけお前に救われたか……それを無下になんて、できるわけないだろ……今度は俺が、お前に想いを、この気持ちを返したいんだよ……!」  本当に、どれだけ仁科から貰ったかわからない。どれだけ救ってもらったかわからない。それを、今度は自分が返していきたい。これだけのものを簡単に返せるとは思わないけれど、それでもこの温かい想いを、幸せを、少しずつでも返していきたいと、心の底からそう思うから。  空いてしまった距離を埋めるように、一歩近づいて抱き締める。一瞬だけ仁科の体は動揺して僅かに固くなったが、しかしすぐに力が抜けて、ゆるりと腕が背中に回ってきた。 「まったく……馬鹿ですね、桐生様は」 「……それでも俺は、」 「私を聖人君子のようにお思いのようですが、お忘れではないでしょう? 貴方と久谷委員長を引き離した張本人は、他でもない私ですよ」 「でもそれは、」 「私は貴方を手にいれるためにどんな手段だって厭わなかった。弱みを握り、ぐらつく気持ちにつけこんで、とことん甘やかした。そっちの方が貴方を堕とすのに有効な手段だと判断していたら、きっと監禁だってなんだってした……そんな人間ですよ」  貴方が思うほど、私はできた人間じゃない。  少しだけ体を離した仁科が、そう言って綺麗に笑う。  そうかもしれない。確かにそうかもしれないけれど、しかしそれでも桐生が、仁科の行動に救われていたのだって確かだった。堕とすためであろうと、どんなに綺麗ではない理由であろうと、それで桐生が救われたことに違いはない、のに。  わからない。どうして仁科が、そんなにも否定したがるのか。そんなにもわからないふりをするのか。理解ができないと、そう視線で訴える。 「でもそれで、お前の狙い通り俺は堕ちただろ……なんで、どうしてそれじゃダメなんだよ……」  いつものようには抱き締め返してくれない隙間を埋めるように、桐生は腕にぎゅっと力を込める。必死の想いを込めて至近距離で見詰めると、仁科は困ったように眉を下げて笑った。 「そうですね、自分でも驚いてます……だけど私は、自分の気持ちよりも貴方の幸せを優先したいと思うくらいには、貴方のことが大切なのだと、ようやく、そう気づいたんです」 「だったら!」 「貴方ともあろう御人が一番欲しいものを諦めるなんて、私自身が我慢ならない。自分勝手で、酷く傲慢な要求だとはわかっています。だけど私の隣を選んでいただいても、貴方がなにかを諦めて犠牲にしているのならば、私は純粋に喜べないらしい」  そう言って、もうなにもかもを悟ったような、吹っ切れたような顔をする仁科。その表情に、桐生は堪えるように奥歯を強く噛み締めた。  嫌だった。やめてほしかった。そんな、そんな顔をされてしまったら。そんなことを言われてしまったら。  背中に回した拳を握り、桐生は俯くしかなくて。俯いてしまったその頭に、ちゅっとキスが落とされた。 「行くんです、桐生様。久谷委員長のセフレになった頃の、自分のためなら他を蹴落とすくらい貪欲な貴方はどこにいったんです?」 「……っ」 「貴方が今、本当に欲しいのは――愛しているのは、誰ですか」  穏やかに問いかける温かな声。泣きそうになりながら顔を上げると、慈しむような瞳とかち合って。 (俺が今、本当に欲しいのは――……)  頭を過るのは、ただ一人。  大きて力強い手。包み込んでくる温かい腕。意地が悪そうに笑う横顔。酷く楽しそうに駆引きを紡ぐ唇。そして、桐生を救ってくれた言葉。  思い描くすべてに、きゅう、と胸が痛くなった。 「……っ、ごめん、ごめん仁科……仁科、俺は……!」 「桐生様……」 「――俺は、久谷を諦めたくない……っ」  ぎゅっと握り締めた拳。  もう、この華奢な体に寄りかかることは、縋りつくことは、許されない。  背中へと回していた腕を解いて体を離す。向かい合った仁科は、とても満足そうに笑っていて。その嬉しそうな表情に、涙が零れそうになった。 「それでいいんです、桐生様。私は十分、貴方に幸せな時間をもらいました。だから、今度は貴方が幸せになる番だ」 「仁科……」 「もちろんダメだった時のために、私の隣は空けておきますけどね」 「……っ」  おどけたように笑う仁科は、体を横にずらす。今度こそはっきりと道を開けて、「さあどうぞ」と促すように腕を広げた。  本当に、彼には感謝してもしきれなかった。彼のおかげで、途中で潰れずに今こうしていられる。彼にもらったものすべてが桐生の背中を押してくれる。  彼がいてくれたから、自分で在り続けられた。  できることならば、ずっとお前の傍にいたかった。お前が笑う姿を、一番近くで見ていたかった。  他でもない俺の手で、お前を幸せにしてやりたかった。  本気でお前を、愛したかったんだ。  でも――…… 「ありがとう仁科……っ」 「ええ……幸せに、なってください」  駆け出した足も、想いも、向かう先は一つしかなくて。もう、後戻りはできない。 第19話 すきであることさえ(くるしかった) 完

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