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第6話 きらいであれば -2
「ほら、俺しかいないぞ。話したいことがあるんだろ?」
「はっ、はいっ! く、久谷様……!」
「うわっ、なにしてんだおい!」
話があるならいつでもこいと手を広げると、なにを勘違いしたのか、感極まったように飛び込んでくる小動物。久谷は慌ててその腕を引き剥がしにかかる。
なにをしているのだ、この男は。決してハグ待ちで手を広げたわけではない。セフレだった時だって、こんなことはしていなかっただろうに。
「おい放せ! 話がないんだったら」
「き、桐生様が!」
「あ?」
「桐生様、が……っ」
ぎゅうっと力強く腰にしがみついてくる手を剥がそうとしたところで、出てきた名前に動きが止まる。しがみついたまま上げられる顔。続きを促すように見つめると、さっきとは比べ物にならない量の水分が一瞬でその瞳を覆った。女優さながらのそれに思わず引いた久谷を余所に、今にも飽和して溢れてきそうな涙を湛えた雨宮は、震える声で言葉を紡ぎ始めた。
「僕、見てしまったんです……っもう、どうしたらいいか……っ」
「見た?」
「桐生様が……っき、桐生様は、久谷様だけでは、ないのです……!」
「は……?」
瞬間、雨宮の言葉を理解できずに数回瞬く。
桐生が? あいつが、俺だけじゃない?
「どうして、どうしてあの方なのですか……! 久谷様は、桐生様以外切ったのにっ……! それなのにあの人は、今でも不特定多数と乱交しているのですよっ!」
「ちょ、待てお前、落ち着けって」
「落ち着いてなんかいられません! 久谷様は、良いように使われて遊ばれていたんです……!」
久谷は無意識に、違う、と必死で首を振っていた。
いや、だって。だって、違う。
違うのだ。だってそもそもが、セフレなのだから。そう、セフレで、なにも雨宮が涙に暮れるほどの特別な間柄ではない。ただちょっとした気まぐれで専属契約したというだけで。だからそんな、遊ばれていただなんて、そんな表現がそもそもおかしいのであって。
頭の動きが、酷く鈍い。わかっていると自分に言い聞かせないとならないほどには、久谷は衝撃を受けていた。
「この間はあんなに楽しそうにお二人でいらしたのに! それなのに、あの人はあんな簡単に股を開いてっ……」
「……」
「誰でもいいんです、あの人は! ヤれれば、誰だっていいんですよっ」
誰でもいい?
それは自分だってそうだ。そうだった、はずだ。
確かに専属契約は破られた。だけどそんなの、笑って許せるくらいのもののはずだ。そもそも始めたのだってゲーム感覚だったのだから。上手くいけば掘り出し物。そんな、お互いに軽いもののはずだった。
それなのに――それなのになぜ、こんなにも頭に血が上っているのか。
「相手は……相手は、誰なんだ」
気づけば口走っていた問い。
聞いてどうする。聞いたところで、自分は彼のセフレだ。セフレでしかないのに。
……――セフレでしか、ない?
頭を過った言葉に、自分の頭から出てきたはずの言葉に、鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
ちょっと待ってくれ。それ以外に、なにがあると言うのだ。なんで、なんでこんなにも、動揺しているのだ。
「き、今日のお相手は、ご自身の親衛隊の隊長さんでした……っ」
「今日の?」
「あの、さっきたまたま、見てしまったんです! そしたらいてもたってもいられなくて、僕……っ!」
はらはらと泣き崩れる華奢な体。それを咄嗟に受け止めながら、しかし足は前へと動き出そうとする。
行ってどうする。行ったところでどうにもならない。浮気じゃあるまいし、別に桐生を責めたいわけじゃない。ではいったいどうしたい。なんでわざわざ、行こうとする。行って、どうしようというのだ。
動こうとする体を、しかし小さな障害物が邪魔をする。下を見れば、懇願するように必死に首を振っている雨宮がいた。
「放せ」
「ダメ、ダメです……っ! 行っちゃダメですっ、傷つくに決まってる!」
「は? なんで俺が傷つくんだ、いいから放せ」
「そんな顔で言われても説得力なんかありませんっ! 僕は、あなたを傷つけたくなくてここに来たのにっ……あっ」
押し問答をしている所に、微かな着信音が響く。ぴたりと止まる双方の動き。それは、久谷のスマホの音だった。
一先ずぐっと引き剥がしてから、後ろポケットを探す。さっき樋口から手渡されたセフレ用ではなく、ポケットから出てきた常用のスマホは着信音を流しながらブルブルと震えていて。
そこに表示された名前――桐生侑紀の文字に、動揺を隠せず目を見開いた。
「か、会長様……」
ディスプレイに表示されているのが見えたのか、雨宮も動揺して唾を飲むのがわかる。震えるそれを数秒見つめたあと、久谷は覚悟を決めて指を滑らせた。
「――はい、久谷」
緊張して僅かに震える声。
情けない、と自分自身に苛立ちながら、しかしまだ酷く緊張したまま相手の返答を待つ。小さく拳を握った。
『……よお、こんな時間までご苦労だな、風紀委員長』
「き、りゅう……」
耳に届いたのは、酷く掠れた声だった。それは散々喘がされたと物語る、自分も何度も生で聞いたことのある、情事直後のもの。スマホ越しでも伝わってくる色気のあるそれは、久谷のお気に入りの一つだった。
それが、その声がなにを示すのか、わかりすぎるほどわかってしまって。ぐっと奥歯を噛み締めた。
『どこぞの親衛隊がやらかしたらしいじゃねえか。久々にてめえからの呼び出しがなくて安心したぜ。ザマーミロってんだ』
くつくつと笑う声。掠れて少し辛そうながら、けれど楽しそうな。ああ、桐生は今、いったいどんな顔して笑っているのか。
ダメだ、やっぱり会いたい。会って、直接話がしたい。
「なあ、おい桐生、お前今どこいる? 今から行くから」
『あー……いい、いい。来んでいい』
「は?」
会いに行くと言っているのに、返ってきたのは気怠そうな断りの言葉。それに、久谷は不可解そうに眉を顰めた。
「違えよ、お前の都合なんて聞いてない。俺がお前に会いたいんだ、会いに行かせろ」
ムッとしてそう言うと、瞬間途切れる声。そして一瞬の間のあと、今度は面白そうにカラカラと笑う声がする。
『バッカお前、俺なんか口説いてんじゃねえよ』
「は? なに言ってんだ、茶化すなよ。俺は会ってお前に話が」
『あ――……なあ、もうやめようぜ』
「え……」
瞬間、停止する思考。
先までケラケラと笑っていた声が、一瞬で真剣な声音に変化する。その言葉に、声音に、背中を冷たいものが走る。
やめよう? なにをだ。いったいなにを、やめるって?
『あの専属契約っての、もうやめよう』
「……勝手に、なに言って」
『悪いな。でもなんかやっぱ性に合わねえし、飽きちまったんだわ』
「は……?」
なんでもないように、あっけらかんと伝えられる言葉。掠れた声が漏れる。
ちょっと待て。待て、おかしいだろう。
いや……いや、違うのか。おかしいのはこちらなのか。わからない。最初は同じスタンスのはずだったのに、いつ掛け違ってしまったのか。
「なんで……」
『んー、だから、もう飽きたってのと……それと、今日ちょうど、お前のファンクラブにも見られちまったし』
「え?」
『ほら、こないだ会ったあのチワワ。今お前んとこいるんじゃねえの?』
さっと視線を雨宮へと走らせる。大きな瞳と目が合うと彼はびくっと反応したが、そのまま再び視線を元に戻した。
『さっきヤってるとこ見られたし、こないだも粘着質っぽかったからどうせお前に言いに行くだろうなと思って』
「だったらなんで、電話なんて」
『あ? だから、契約切るためだろ。チクられたりなんなりって、面倒くさいの嫌いなんだよ。ちょうど飽きてきたところだったし、だったらもういいかって』
あ、ルール破ったのは悪かったよ、ごめんな。
さらりと告げられる謝罪の言葉。
謝罪? やめてくれ、謝罪なんかされたら、そしたら、それは。
『ま、そんなわけだから、ゲームは終わりだ。これからはまた、前までと同じ関係な』
「ちょ、前って」
『そう、前に戻るだけだ、簡単だろ?』
簡単? 前の関係に戻るのが?
極力目を合わせず、会話もせず、視界にも入れない。お互いを生理的に受け付けない、犬猿の仲。
あれに、あの状態に、戻れというのか――……
『じゃあ、それだけだから』
「桐生」
『じゃあな、ゲーム、なかなか楽しかったぜ。ありがとな』
「おい! おい待て桐生! 桐生……っ!!」
ブツリ、切れた接続。その瞬間、手からスマホが滑り落ちた。
頭が、ついてこなかった。
飽きた? やめる? 戻る? 前の関係に?
遊びは、ゲームは、もう終わり――……
先まで桐生の声を届けていた機械を拾うこともできず、そっと抱き締めてきた雨宮を振り払うこともできず。久谷はしばらくただそこに、呆然と立っていることしかできなかった。
第6話 きらいであれば 完
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