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第9話 すきだなんて -1

 会議内容のメモを見ながら、順番に必要事項を打ち込んでいく。この記載は必要、これはいらない、これもいらない。カタンとエンターを押したところで、次の項目に一瞬だけ躊躇する手。 (……なにしてるんだ、アホらしい)  僅かな動揺を誤魔化すように、警備責任者の名前を打ち込んだ。その文字列をしばらく見つめた桐生は、やがて細く長い息を吐く。  あれから、二週間。  桐生が完璧に避けているおかげで、久谷と直接接したことはまだ数えるほどしかなかった。あまりにも露骨に避けすぎるとさすがに不自然かとも思ったが、しかしセフレになる前までの関係を考えるとこれくらいする方が自然だったように思う。現に、こんなにもあからさまに避けているにも関わらず、まだ誰にもそのことを突っ込まれたことはなかった。  今までが異常だっただけで、これが自然で、この距離感があるべき姿だったのだ。そのことを思い知らされている気がして、桐生は苦笑するしかない。  そして久谷との接触がなくなるのに比例して、仁科との接触が増えていった。当然だった。彼と寝る代わりに、久谷に気持ちをバラさないでおいてもらうという交換条件なのだから。 『気持ちいいですか、桐生様』 『本当に、健気ですね……』  彼は、桐生をとことん優しく抱いた。痛みなどない、快楽しかない行為。  ずっと耳元で甘く優しく囁きながら、許容量をオーバーするほどの快感を流し込まれ続ける。もはや暴力ともいえるほど強烈なそれに、流されるしかないのだと、流されても仕方ないのだと思えてしまうから、ふとした瞬間に、どうしようもなく、怖くなる。  だけど桐生は、もう薄々、気づき始めていた。  自分が、それに甘えているのではないかということ。どこかで、こうなってよかったと、そう思っているのではないかということ。 (きっと、もう)  あの時、もうそろそろ限界を感じていたのだ、精神的にも、肉体的にも。自分で言い出しておきながら、しかしもうそれだけでは足りなくなっていた自分に。肉体関係よりも先に進みたいと、前提を覆す願いばかりを考えてしまう自分に。  少しでも近づければ、肉体だけでも関係を持つことができれば、それで満足できると思っていた。それ以上は望まないと、望むことなどあるわけがないと、思っていたのだ。しかしその考えは甘かった。  想いを昇華させるために持ち掛けた関係。しかしそれは、想いを深化させることにしかならなかったのだ。 「あー……」  やっていた作業をすっかり中断し、桐生は机に突っ伏していた。マホガニー製の机はひんやりと冷たく、気持ちよくて目を閉じる。  久谷が恋愛を敬遠する理由は、まさしくこうして執着されるのが煩わしいからなのに。それが嫌で、面倒くさくて、久谷は自分に恋愛感情を持つ相手とセックスをすることを拒んでいたのに。わかっていても止められなかった。割りきれずに求めてしまいそうになる自分を、抑えられそうになかった。  自分のことを本気で好きなやつとは寝ない、それがルール。それなのに、そこに嘘をついてルールを無視し、他のセフレを切らせてまで入り込んだのだ。そんなズルをした自分は――何人もの人間の我慢や想いや落胆を踏みにじって久谷を独り占めした自分は、絶対に、気持ちを知られるわけにはいかなかった。  しかし、そうとわかっていても想いの深化は止まらない。どこか桐生に執着するような言動を見せる久谷に淡い期待を抱いてしまう。これならいけるかもしれないと、どこかでそう思い、ルールを、今まで踏みにじってきたものを見ないふりして、いつか自ら口にしてしまいそうな自分。そんな自分が、どうしようもなく、怖くて。 (だから、きっと――……)  圧倒的に不利な条件を持ち掛けられたあの時、きっと自分は、どこかで安堵したのだ。  これでもう、想いばかりが募って苦しくなることも、いつか自ら真実を告げてしまいそうな自分に怯えることもない。悔しさと、切なさと、悲しさの中で、どこか冷静にそう思う自分がいたのは、確かだった。  そうしてそれを、その逃げをみんな彼らのせいにした。自分はただ、被害者ぶって。哀れな悲劇のヒロインのようなふりをして。 「……あ」  余計なことを考えていたせいでうっかり大切な内容を二、三個入れ忘れていたことに気づき、慌てて身を起こす。カーソルを戻して欠けていた文章を手早く打ち込むも、集中できていなかったせいか他の部分にも打ち間違えが多々あることに気づいてしまって。らしくないミスに、桐生は苛立たしげに小さく舌打ちをした。  すべて、彼らのせいにした――そう気づいたのは、いつだったか。あの男に、自分の親衛隊長に言われるがまま抱かれる内に気づいたその事実に、最初、桐生は愕然とした。  自分は、逃げたのだ。今さら気づいた罪悪感から。そしてその罪悪感でさえ無視してしまいそうな自分から。  彼らに脅されて、想い人から無理やり引き離されて、無力にも組み敷かれている。そう思った方が、自分を圧倒的な被害者にする方が、ずっとずっと楽だったから。他にもいくらでも方法はあっただろう。それでも他の道を模索せずにただ従順に従ってきたのは、きっとそれが、自分にとって一番楽だったから。 (それに……)  そう気づいてしまった以上、多くの想いを踏み躙ってまで得た立場から逃げ出した自分に、きっと罰を与えたかったのだ。  この罪悪感から逃れるため。ルールを無視して強引に割り込んだにも関わらず、結局逃げ出してしまった自分を戒めるため。ただ、自分に、罰を与えたかった。そうしていた方が、心が休まったから。ただの自己満足でしかなかったけれど、罰のように抱かれることで、なにかに許されるような気がしていたのだ。  健気だ、かわいそうだと囁きながら、甘く熱く俺を抱くあの男。仁科はそれに、桐生の考えに気づいているのかもしれない。  彼は時折、切なそうな、哀れなものを見るような瞳で桐生を見つめる。そうして必ずといって良いほど、どんなに抵抗しても従うしかないのだと、最終的に貴方は拒絶することはできないのだと、言い聞かせるように口にするのだ。そうすれば暴露したりしないと、甘い囁きの中に脅し文句を練り込めて。これは不可抗力なのだと、脅されているのだから仕方ないのだと、まるでそう言い聞かせるように。  だから、桐生は最近思うのだ。  仁科は、自分のこの感情に気づいていながら、それでもその自分勝手な気持ちに合わせてくれているのではないのかと。想う相手には、誰だって想いを重ねて抱き合いたいはずだ。しかし彼は自分の気持ちを無視してまで、贖罪に付き合ってくれているのではないかと――…… 「……いちょう、会長、会長!」 「っえ? あ、なんだ……?」  物思いに耽り、手を止めて呆としていたらしい。掛けられた声に気づいて我に返って慌てて顔を上げれば、そこには最近会長にお冠な副会長が立っていた。さっきまで誰もいなかったというのに、いつの間に帰ってきていたのかもわからなかった。それにさえ、気づいていなかった。  最近はほとんど話し掛けにさえ来なかったのに珍しい。久谷との縁が切れたことで仕事スピードが戻ったし、なにより仕事中の電話がなくなったおかげで、彼の機嫌も回復したのかもしれないなと思いながら、副会長の言葉を待った。 「なんだじゃないですよ、何度も呼んでいるのに」 「悪い、ちょっと考えごとしてて」 「貴方がですか? なんです、昨日の情事でも思い出していたのですか」 「……」  珍しく殊勝に謝ったというのに可愛げもなく返されて、桐生の顔があからさまに引き攣る。昨日の情事? そんなもの、色々な意味で思い出したくないというのに。  ある意味図星なその言葉に、なんて返していいかわからず一瞬逡巡する。上手く誤魔化せる返し文句を探して僅かにできた間に、しかしなにを思ったのか、目の前の美形が少し困ったように笑った。 「嘘ですよ。すみません、苛めすぎました」 「は?」 「調子が悪いことくらい、私にだってわかります。心配なんですよ」 「え」  ここしばらく仕事のスピードは馬鹿みたいに早いし、会議だって完璧に最短時間でこなすし、生徒会室でスマホを弄る素振りすら見せない。完璧すぎて、貴方じゃないみたいですよ。  なんて、王子様だなんだと褒め称えられる爽やかな笑みで言われ、桐生も盛大に吹き出した。そうだった。彼はこういう人間だった。おとぎ話から出てきたような顔で、躊躇なく毒を吐く。そんな人間に対して殊勝になろうとした自分が馬鹿だった。 「ははっ、そりゃあありがたい。お優しいね、我が副会長殿は」 「これでも本気で心配してるんですけどね」 「ありがとう。もちろん伝わってるさ。でも、俺は別に平気だから」  だからあまり、深入りするな。  そう言外に含ませて、桐生は綺麗に笑ってみせた。この悩みは、彼に心配してもらえるほどの価値はない。  最近の仕事が完璧だったのだって、久谷と限りなく接触したくないがためだった。それらを知られたらきっと、汚らわしいと蔑まれるだけだ。そしてそれは、正しい反応だから。 「……本当に、平気なのですね?」 「ああ。お前が言う通り、いつも通り俺様は完璧。なんの問題もない」 「……」  得意げに「そうだろう?」と手を広げてみせるのをしばらく険しい表情で見つめていた副会長は、やがてはーっと大きなため息を吐いた。どうやら話すつもりがないらしいと諦めたようで、物わかりの良い右腕に、桐生は満足気げに目を細める。 「……じゃあ、なんの問題もないのなら、これをお願いしましょうかね」 「は? なにこれ」 「風紀委員会への、書類ですよ」 「は……?」  深入りはしない彼に安堵したのも束の間。パサリと机に置かれた書類に、言われた言葉に、思わず震えた声が出る。動揺を隠しきれていない声。どういうことだと端整な顔を見上げれば、彼はゆるりと顔を緩ませて微笑んだ。 「私はこれから顧問との用事があるので、至急久谷委員長に届けて頂きたいのです」 「えっ、いや……」 「もう他の役員は帰ってしまったので、会長にしか頼めないんです。お願い、できますよね?」 「――……」  この男は、なにかを、知っているのか。  名指しで指名された人物。断ることのできない状況。他人に、まさか仁科たち以外にも知られているのかと、そう思った途端、全身に怯えが走る。一気に警戒を滲ませて身構えた桐生に、しかし当の本人は再び困ったように笑った。 「そんなに警戒しないでください。別になにをしようってわけじゃありませんから」 「なにが、だよ」 「貴方が最近、どうして塞ぎこんでいて元気がないのか、そして最近貴方の生活にどんな変化があったのか……それを繋げられないほど、私は馬鹿じゃありません」 「……」  そんなにわかりやすかっただろうか。自分ではひた隠しにしていたつもりだったのに、あまりにあっさりとそう言われ、思わず頬に手を当てる。確かに少しだけさっきのように物思いに耽る時間は増えたかもしれない。しかしだからといって、もうとっくに見限られたと思っていた人間にさえバレているなんて、よほど顔に出ていたか、もしくは彼が見逃さない質なのか。後者であってほしいと願うところだ。 「物憂げな貴方は貴方らしくない。もっといつも通り偉そうにしていてください。目にも毒ですし」 「お前な」 「とにかくなにか後悔があるなら、未練があるなら、もう一度会ってみればいいじゃないですか」 「っ、そう簡単に……!」 「それでもどうしても嫌だと言うなら、無理だと言うのなら、ただこれを持っていけばいい。貴方は生徒会長だ、職務を果たす責任がある。だから仕方なく、嫌でも届けなければならないんです、風紀の長に」 「――……」  突きつけられる大きな白い封筒。こちらを真っ直ぐに見つめる強い光を灯した瞳は、逸らされることなく桐生の背中を押してくる。ゆるりと緩慢な動作で、しかし確かにそれを受け取ると、ふわりと微笑む端整な顔。  会いたい、会いたくない、会ってはいけない――会わなきゃならない。  いつのまにか、久谷に関してはなんだって大義名分がなければ動けなくなっている自分に、桐生は小さく苦く笑ったのだった。

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