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第9話 すきだなんて -2

『それじゃあ、私は顧問と話に行ってくるので。よろしくお願いしますね、会長』  至急届けなければいけないものなのだと釘を刺し、有無を言わせず出ていってしまった副会長。彼の言葉に背中を押されてつい受け取ったのは、確かに自分だ。しかしまさか、久谷に自分から会いに行くことなんてもうないと思っていたから、受け取ったものの、桐生は酷く困惑していた。  しかしいくら嫌であろうと、受け取ってしまった以上届けなくてはならない。桐生の中に、仕事を放棄するという選択肢はなかった。  これでも生徒会長として、素行はともかく仕事は優秀な方だった。根も葉もない噂だけが一人歩きしていたときだけでなく、実際に久谷とセフレ関係にあったときも、それから仁科と関係がある今だって、きちんと真面目に仕事はこなしている。久谷と関係があったときは、いつもより大幅に時間を掛けていたのも確かだけれど。  そんな根は真面目な生徒会長が急ぎの書類を蔑ろになどできるわけもなく、桐生は仕方なく生徒会室を出て風紀委員室へと向かっていた。 (あいつがいなければ、いい話だ)  心配してくれた副会長には悪いけれど、会えばどうにかなるという話でもない。今さら会ったところで、久谷にとって桐生は、ただのセフレだと思っていたのに突然振ってきた男、だ。嫌な顔をされるならともかく、歓迎されるとは考えづらい。  だから、久谷がいない風紀委員室に行くのがお互いにとって一番ありがたい成り行きだった。残っている風紀委員に、長に渡しとけと言って一方的に預けるのが、桐生にとっても久谷にとっても、双方がマイナスの気持ちになるのを防ぐ、穏便な術だった。  ただ、もしも彼がいた時は、どうすればいいのだろうか。  自分が果たして冷静に、普通の対応ができるのか、正直とても不安だった。今までだって彼と事務連絡をしたことくらいはある。しかし副会長に色々言われたせいか、もしくはその前に考えていたことのせいか、心が浮わついている今、動揺なくそれを成し遂げられる自信はなかった。自信があろうとなかろうと、やり遂げなければならないのだけれど。 (……俺が会いにきたと知ったら、あいつはどんな顔をするかな)  多分、きっと、恐らく。彼は、嫌な顔をするだろう。鬱陶しいような、面倒くさそうな、不愉快そうな嫌な顔。いや、あるいは無表情かもしれない。以前言った、前の関係に戻るというのを実行してくれていて、まるで桐生には興味がないといった顔で書類の説明だけは聞いてくれるかもしれない。それがある意味、一番やりやすいのだと思う。  だけど、もしかしたら。  もしかしたら、本当に微々たる可能性だけれど、彼は自分が会いにきたことを、喜んでくれるかもしれない。歓迎してくれるかもしれない。  どうしてやめるなんて言ったんだと、どうしてそんな嘘を吐くのかと、詰ってくれるかもしれない――そんな、愚かな考えが頭を過り、思わず笑い出しそうになった。  そんなこと、あるわけがないのに。懲りずに未練がましくまだそんなことを考えられる、自分の浅ましさと無神経さに、驚き呆れた。本当に、自分の欲にはどこまでも従順らしい。  あともう一つ角を曲がれば、もう目的地はすぐそこというところまで迫ってきていた。一歩進む毎に、ずしりと少しずつ重くなっていく足取り。もはや動かなくなりそうな足を叱咤して、なんとか歩みを進めていた桐生は――突然横の扉から出てきた男に、心臓が止まりそうになった。 「――っ!」 「き、りゅう……?」  驚きの表情でその名前を呟いたのは、紛れもなく、桐生が資料を手渡さなければならなかった男で。予想外の展開に脳の対処が追いつかない。  動揺からか、怯えからか、恐怖からか、もしくは喜びからか。勝手に震えだす手を隠すように、桐生は腕を背後に回した。  待て。待ってくれ。まだ、心の準備ができてない。 「……め、ずらしいな、お前がこっちまで来るなんて。なにか風紀に用か?」 「……ああ。急ぎの資料を……」  数回ぎこちなく瞬いたあと、なにも言えずにいる桐生に助け船を出すように久谷が口を開いた。  久しぶりに正面から向かい合い、今にも逃げ出しそうになる。足は震えてないか。顔を強張ってないか。声は上擦ってないか。目は泳いでないか。  どれ一つとっても、自分らしくできている自信がなかった。だから嫌だったのだ。頼むから、せめて準備をさせてくれ。少しだけ待っていてくれたら、俺様でも優等生でも淫乱でも、今までみたいになんだって完璧に演じてみせるのに。  だけどそう思うと同時に、拒絶はされていないらしいことに、泣きたくなるほど喜んでいる自分もいて。もうそれだけで、なんだっていいかもしれない。きっと嫌われてはいない、それだけで、十分で。動揺の中でさえ、そんなことを考えた簡単な自分に心のなかで笑いながら、それでもなんとか平静を装って資料を手渡そうとしたときだった。 「久谷様あ、お忘れものですよ~」  久谷の奥から聞こえた、少し高めの甘やかな声。僅かに表情が強張る久谷が口を開きかけたのと、その声の人物が顔を出したのは同時だった。 「ちょ、お前はちょっと中入ってろって!」 「え、なんでですか? あっ、会長様……!?」  ザワリと、胃が震えるような感覚がした。  ひょこりと満面の笑みで久谷にじゃれかかったのは、見間違えようのない顔で。もう二度と見たくもないと思っていた、二週間前は桐生を陥れることができて心底愉快そうに笑っていた、顔。その顔が、今度は桐生を見て、酷く焦ったような顔をする。 (――なんだ、そういうことかよ)  二人の気まずそうな目配せを見て、浮わついていた気持ちがストンと着地した。どこかで落胆している自分に気づき、いや違うだろう、と思い直す。  そういうことかよ、ではない。寧ろこれ以外に、どういう事態になっているというのか。久谷が焦がれてくれているとでも、セフレを作らずに待っていてくれるとでも思っていたのか、馬鹿らしい。久谷が自分のことを拒絶しなかったのは、彼には桐生に拘る理由などなかったからだ。もうとっくに、過去の出来事となっているからだったのだ。  ついさっきまでは久谷と久しぶりに近距離で話せたこと、そして衝撃と拒絶されなかったことへの喜びでヒートしていた思考が、すっと冷めていくのがわかる。馬鹿らしい。自分に言い聞かせるように、その言葉がぐるぐると頭を回った。 「あ、えっと桐生、これは」 「俺に説明なんざいらねえよ。ほら、書類だ」  目を見ることなどできなくて、適当にぐいと手元に押し付ければ、反射的に受け取る大きな手。  その節くれだったゴツい指が、この間まで自分をどんな風に触っていたかと思うと、さっきまでどんな風に隣の華奢な体を触っていたかと思うと、堪らなくて。その手から無理やり視線を剥がす。  もういい、これで任務完了。あとは帰るだけだ。こんなところにこれ以上いたくなかった。もう二度と、二度と副会長の頼みなど聞いてやるものか。もう、絶対にごめんだ。 「じゃあな、邪魔して悪かった」 「桐生、だからこれは……!」 「しつけえな」  一刻も早くこの場から離れたくてくるりと踵を返すと、まだ後ろから食い下がってくる声。それに対する返事は、予想以上に苛立ちが籠った。  いったいなんのつもりなのだ。昔のオンナに今のオンナを知られたからってどうして困ることがある? 確かに気まずいかもしれないが、しかし間違ったことは、弁解しなくてはならないようなことは、なにもしていないだろうに。  このままだと、こんなところで知りたくもない二人の関係やらなんやらを説明されてしまいそうで。セフレか、本命か、はたまた友人か。なんにせよ、どう足掻いても自分にはなれない関係を、自分の手には絶対に届かない立場であることを伝えられて、冷静でいられるわけがなかった。そんなこと、久谷の口から直々に聞けるわけがないから。 「うるせえよ、俺には関係ない」  仕方なく振り返り、冷めた視線と共に拒絶の言葉を吐けば、久谷はぐっと堪えるように口を噤んだ。結局たったそれだけで引き下がり、久谷と雨宮、二人並んで仲良く沈黙する姿に、それでいいと笑みを浮かべたのだった。  わかっていた。わかっていたはずだった。わかっている、つもりだった。  自分が彼にとって、大勢のセフレの中の一人でしかなかったこと。自分が断ったって、いなくなったって、その代わりなどいくらでもいるということ。わかっていると言いながら、それでも動揺し、落胆し、嘆く心を、思いっきり嘲笑ってやりたくなる。  そしてなにより――その中でももしかしたら、弁解したくなるくらいには、気に入られていたのかもしれない、なんて。  たった今、その望みのなさを実感したくせに、まだそんなことを考えるだけで幸せになれる。そんな呆れるほどにおめでたい頭をしているのは、紛れもなく、自分だった。  どこまでも貪欲になるくせに、呆れるほど安くもなれる自分が、自分でもわからなかった。期待して、落胆して、失望して、傷ついて。それでもまた、懲りずに期待しようとする、自分が。  だけど、たった一つだけ、今も昔も確かなものがあった。  それは、自分が吐き気がするほど貪欲になれるのも、あるいは愚かなほどに安くなれるのも、久谷一人に対してだけだということ。ただそれだけだった。 第9話 すきだなんて(つたえられない) 完

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