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第10話 きらいだとは -2
「――ああ、好きだよ」
それくらいでしがらみが一つ消えるのならば、躊躇する必要などない。なんでもないようにさらりと告白すれば、その小さな唇は一瞬だけぐっと結ばれた後、僅かに震えながら口を開いた。
「……あちらに、その気がないとしても?」
「さあな、あいつの気持ちなんてわかんねえだろ。だったら最初から諦めるわけにはいかねえよ」
「そうでしょうか? そもそも貴方のセフレになろうとした時点で向こうにその気はなさそうですけど」
「そうかもしれないが……でもお前みたいな例外が、他にもいるかもしれないだろ」
大人しくしていれば、痛いところばかりついてくる。調子に乗るなと思いながら言葉を返せば、雨宮は僅かに目を見張ったあと、「それはそうですが」と消え入りそうな声で呟いた。
「だけど……だけど彼は、貴方に飽きたと言ったのでしょう? そう言って貴方を捨てたのですよ」
「……あいつは、セフレである俺に飽きたんだ。まだ本気の俺は見せてねえ」
売り言葉に買い言葉。一番気にしていることに無遠慮に踏み込まれ、うっかり言うつもりのなかった言葉まで吐き出してしまった。こんな未練がましい薄ら寒い文句、言うつもりではなかったのに。まるで自分に言い聞かせるようなこじつけの言葉。どうにか見つけ出した希望に、みっともなく縋っているのがバレてしまう。
しかし自分の言葉に思わずしまったという顔をした久谷とは裏腹に、それを言わせた本人は、なぜか諦めたように笑って。そうしてようやく、納得したように頷いた。
「そうですか……久谷様が本気なら、仕方ないですね」
「ああ、まあ、そういうことだから、もう」
「……だけど、僕は引きませんから」
「いや、え?」
戸惑う久谷を余所に、なにかを決意したように雨宮はきりっとした表情を見せる。それから、おもむろに久谷の手を取って持ち上げた。
「僕はもう、貴方のセフレじゃなくなった。だからもうなににも縛られない。自由です」
「自由……?」
「ええ。だから、貴方に直接言える……久谷様、貴方のことが、好きなんです」
「はあ?」
ここにきてのまさかの告白に、久谷はぽかんと口を開けた。間抜け面を晒していることに気づく余裕もなく、すっきりとした顔をしている雨宮を穴が開くほど見つめる。
「え、お前、俺の話聞いてたか?」
「ええもちろん。ばっちり聞いてましたよ」
「だったらなんで……だって俺は」
「久谷様が誰のことを好きであろうと関係ありません。僕は久谷様が好きなんです。これだけは、久谷様にだって止めることはできません。そうでしょう?」
ふっきれたように胸を張る彼の目は、唖然としている久谷を真っ直ぐに見つめ返す。
いや、確かにそうかもしれないけれど。しかし最初から負け戦とわかっているのに、どうしてわざわざ自分から突っ込みにくるのだ。それに今までの関係と久谷の振る舞いを一番よく見ているくせに、ダメ押しでこの間あんな抱き方をされているというのに、どうしてまだ久谷のことを好きだなんて言えるのか。どう思われてもいいと思って彼らには接していたから、我ながら最低な男だったというのに。
疑問しかなかった。そもそも結局いい返事はもらえないのがわかっているくせに告白なんて――とまで考えて、それは自分も同じだということに気がついた。
「今は無理だってわかってますけど、久谷様がフラれた時とかに、寂しさからとか体を持て余してとか、いつか振り向いてくださるかもしれないですし」
「おい、フラれる前提で話を……」
「とにかく今は、会長様は僕の敵なんです。今まではセフレで同列だったけど、今からはライバルです。久谷様の恋の邪魔はしないかもしれませんが、手助けもしませんし、僕は僕でアピールしていきますから。覚悟してくださいね」
「お前な……」
にっこりととびきり可愛く笑いながら言われた言葉。それにひくりと頬を引き攣らせつつ、ベッドから立ち上がる。なんだか予想の斜め上をいったけれど、これで一応話はついたということになるのだろう。向こうもそう思っているようで、その華奢な体は素直に「どうぞ」と扉への道を開ける。
「あー……じゃあな」
「ええ、また近い内に。体が寂しくなったらいつでも呼んでくださいね」
「またセフレとか言い出すなよ」
「違いますよ、大好きな貴方のためだったらいくらでもご奉仕すると言っているんです。セフレになりたいわけじゃなくって」
悪戯っぽく笑って「体で堕とすっていうのもありでしょう?」と言う頭一つ分下の頭をはたく。吹っ切れたように好きだなんだと繰り返す潔さに、こちらまでなんだか笑いたくなった。
その前を通過して、扉へと向かう。他のセフレたちとも、今回のように穏便にいってほしいものだった。正直雨宮が一番厄介だと思っていたから、あとはきっとなんとかなるだろう。
こうして一番の心配の種がなんとか落ち着いたことで、油断していたのかもしれない。まさか、最近近くで見掛けることさえなくなった桐生が、自分の生息地付近に近寄るだなんて思ってなくて。だからなにも考えずに軽率に扉を開けて――目に飛び込んできた人物に、久谷はぽかんと口を開けた。
「――っ」
「き、りゅう……?」
無意識に口から零れる名前。
最近は無表情しか、それさえ遠目でしか見ることができていなかったというのに、こんなに近くに僅かに動揺を表に出している桐生がいるなんて。もしかしたら、会いたすぎてついに幻覚まで見えてしまっているのかもしれない。そんな考えが一瞬の間に頭を過り、さすがにそれはないと自分で否定する。
しかしなにも言おうとしない桐生は、今にもそのまま立ち去ってしまいそうで。せっかく久しぶりに会えたのだから、このまま帰すなんて勿体ないことはしたくない。どうにかして引き留めようと、久谷はとりあえず口を開いた。
「……め、ずしいな、お前がこっちまで来るなんて。なにか風紀に用か?」
「……ああ。急ぎの資料を……」
――書類。そうか、書類か。会いに来てくれたわけではない。そりゃあそうだ、当たり前だ。だけどそれでもいい。桐生の顔を、こうして見られたのだから。
そういえばさっき部屋を出るとき、委員長宛の急ぎの書類が生徒会から来るからすぐに戻ってこいと言われていたような気がする。だけどてっきり、どうせいつものように副会長か補佐が持ってくるものだと思っていたから、まったく興味はなかったのだ。それなのにまさか会長直々に持ってくるなんて。
きっと僅かでも遅れていたら、その書類は部下経由でこちらに回ってきたことだろう。タイミングの完璧だった自分を褒めつつ、差し出された封筒を受け取ろうとしたときだった。
「久谷様あ、お忘れものですよ~」
背中から掛かった甘えた声。当然それは桐生にも聞こえていたようで、ぴくりと止まってしまった手に顔が強張る。まずい。今は、このタイミングは非常にまずい。疚しいことなどないのだけれど、しかしタイミング的にとてもよろしくなかった。
しかし、頼むから大人しく中にいてくれという願いは聞き入れられない。静止をかけるよりも先に後ろから首に絡んできた腕は、先程邪魔はしないと言ったはずの男のもので。
「ちょ、お前はちょっと中入ってろって!」
「え、なんでですか? あっ、会長様……!?」
不思議そうに首を傾げたところで雨宮はそこに立っている人物に気づいたようで、すぐにぱっと腕が外れた。さっと視線だけ送れば、ごめんなさいという表情が返ってきる。
すぐに久谷が桐生へと視線を戻すと、第三者の登場に微かに目を見張っていた端正な顔が、しかしすぐにいつものポーカーフェイスへと戻ってしまっていて。それに気づき、久谷は慌てて口を開く。せっかくさっきまでは僅かでも感情を表に出してくれていたのに、これではまた、いつもの事務連絡と同じではないか。
「あ、えっと桐生、これは」
「俺に説明なんざいらねえよ。ほら、書類だ」
弁解しようとするも、もうすっかり元に戻ってしまった冷めた表情と冷めた言葉で返され、ひんやりと拒絶される。確かに今の自分には桐生に弁解も説明もする必要はないけれど、それでもしたいと、桐生にはわかってほしいと思うのに。
ぐいと書類を押し付けられ、反射的に受け取ってしまう腕。これさえ受け取らなければもう少し話せるのではないかと気づいたときにはもう遅かった。
「じゃあな、邪魔して悪かった」
「桐生、だからこれは……!」
「しつけえな」
桐生の口調に、あからさまな苛立ちが滲む。資料を渡したらお役御免だとでも言うように、さっさと踵を返す生徒会長。その背中に食い下がろうと一歩踏み出すも、振り向いた冷たい視線で射抜かれて。
「うるせえよ。俺には関係ない」
そうして吐かれた拒絶の言葉は、的確に、正確に、久谷の心臓を抉ってくれた。
上手く言葉が出てこない。その腕を掴もうとして上げかけた腕も、所在なく空を掴んだ。そんなことをしている間にも、その黒髪はあっというまに消えてしまって。動揺して一瞬でも躊躇してしまった自分にチッと舌打ちをして追いかけるも、角を曲がったところでその姿はもう消えていた。
最悪な気分だった。絶対に勘違いされてしまった。あんな状況、勘違いされないわけがなかった。いったい、なにをやっているのだ。あーもうと頭をがしがしと掻きつつ、久谷はその場にしゃがみこむ。しばらくするとそっと隣にやってきて、申し訳なさそうに縮こまった影。久谷はゆるりとそれを見上げた。
「……それで? なにが忘れ物だって?」
忘れ物もなにも、今日はあの教室に入ってからなにか身に付けていた物を取った覚えはない。見上げる久谷に、さっきまで甘えた声を出していた男はヒラリと紙を差し出し、引き攣った笑みを浮かべた。
「えーっと、電話番号とアドレスを?」
「は?」
「あー……いや、はい、セフレ用の方しかお伝えしてなかったなーと、思いまして」
「……そうかよ……」
ピッとその紙を受け取ると、えへっと誤魔化すように可愛く笑うのを見つめてから、久谷はガクリと項垂れる。頭上でごめんなさいごめんなさいと平謝りする声を聞きながら、お前のせいではないと思いつつ、それを言葉にする気力はなかった。
雨宮のせいではない。わかっている。むしろ引き留められなかったのは自分の力量と、彼の中の自分の存在の小ささのせいなのだけど。だとしても、そうとわかっていても、あのタイミングには恨み言の一つも言いたくなるというものだった。あまりにもタイミングが悪すぎるだろう。いくらなんでも、あの時でなくてもよかっただろうのに。
「あー……ちっくしょう」
雨宮の言う通り、久谷は確かに一回捨てられている。捨てるという表現が正しいかはともかく、それを裏付けるような桐生の態度。冷たい視線。関係ないという言葉。
はっきりと他人から口にされた、捨てられたという言葉と、本人からの明確な拒絶。
あれは、さすがに、正直凹む。
「あーくそ……凹んでる場合かよ、久谷弘毅」
誰にともなく悪態をつきつつ、しかし奮い立たすように自分を叱咤する。そう、凹んでいる場合ではないのだ。彼に会いに行く前に、今までの関係にケジメをつけておかなければならないのだから。少しでも桐生との関係の枷になるものをなくすために。自己満足かもしれないが、それでも、本気なのだと伝えるために。
桐生の後ろ姿が消えた方向を恨めしく見つめつつ体を起こす。セフレ用のスマホを取り出しながら、久谷はゆっくりと立ち上がったのだった。
第10話 きらいだとは
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