16 / 26
第16話 不調
結局、紫乃はミーティングに遅れて参加することになってしまった。ピクリとも動けず固まっていたら、スタッフに捕まって強制連行された。しかし頭の中は真っ白で、舞台監督が話している内容が頭に入ってこない。
(ダメだダメだ、気持ちを切り替えないと……)
ぼーっとしていると、すぐにそれに気づいたのか、真田が近づいてきて、背中を叩かれる。『ちゃんと聞いてるか?』という意味だろう。紫乃は頭を下げて、話に集中しようとした。
どうやら、立ち位置の修正があったらしい。紫乃の名前が呼ばれて、座席側で話を聞いていた紫乃は舞台上へ上がる。支持された場所に立ってみると、今までとは違ってだいぶ位置が変わるようだ。登場するのも上手からではなく下手から、という指示が与えられた。
いつもなら、これくらいの変更で混乱する紫乃ではなかったが、いまは自信がない。
「えっと……すみません、一回、この場面だけ通してもらってもいいですか?」
「オーケー。じゃあ一回流してやってみよう」
舞台監督の指示で、出番のある役者たちがぞろぞろと舞台に集まり、それぞれの立ち位置につく。ここでは出番のない藤城は、真剣な眼差しで舞台の上を見つめていた。
「……っ」
心臓が痛い。藤城に見られていると意識しただけで、うまく体が動かなくなってしまう。
「……どうした紫乃、お前の芝居はその程度か。リハだからって手を抜くな」
「す……すみません」
演出家からダメ出しが飛ぶ。きびしい言葉に、舞台上では緊張感が走った。だが、もっと良くなるはずの役者にしかこんな言葉はかけられない。紫乃は一呼吸おいて、役に集中しようとした。
板の上で、その役として生きる。これは舞台俳優の鉄則だ。生身の自分を持ち込んではいけない。
次にセリフを口にした時は、いつもと変わらない役者・柚原紫乃に戻っていた。
「よーし、確認はこれくらいでいいか。次はアンサンブルのアクションチェックだ。藤城さん、お願いします」
アクション監督も兼ねている藤城が「はいはーい」とゆるいオーラを出しながら舞台監督からマイクを受け取った。
「んじゃ、殺陣のシーンおさらいしとこうか。誰とは言わないけど、昼の公演で、ちょっと間違えた人がいたでしょ。なのでそこを重点的にやっていきまーす」
舞台上から笑い声が上がる。こういう空気作りは藤城の十八番だ。
紫乃は舞台から降り、一度メイクを直しに楽屋へと戻った。その途中、アンサンブルに指示を出す藤城とすれ違ったが、お互いに何も話さず、ただ横切るだけだった。
「…………」
無言で通り過ぎる。その瞬間、キスされたときのことが鮮やかに思い出されて、紫乃は足早に立ち去った。
嘘じゃない。夢じゃない。自分は、藤城とキスをした。抱きしめられて、それから――。
「まだ、信じられない……」
泣きそうだった。藤城がネックレスを外した理由が自分にあるのだとしたら、たどり着く答えは一つしかない。
けれど、同時に恐怖していた。十年分の想いが溢れて止まらない。自分が自分で無くなってしまうような、そんな感覚に襲われていた。
クラクラして、思わず立ち止まって壁に寄りかかった。
「輝さんが……俺の、こと……」
嬉しくないわけじゃない。けれど、心の準備が出来ていない。
通りがかったスタッフに心配されたが、紫乃は曖昧に返事をして楽屋へと急いだ。
ともだちにシェアしよう!