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第23話 綾香

 “綾香”は、不運な事故で亡くなった、藤城の元恋人だ。  当時、売れない役者だった藤城と付き合っていた綾香は、彼が初めて主演する舞台、『ハムレット』を観に来る――はずだった。  公演が行われるのは小さな小さな劇場で、観に来る客もほとんどがお情けでチケットを買ってくれた身内だったが、観に来てくれるだけまだマシな方だった。同情心でチケットを買うだけ買って、観にこない者が大勢いるのだ。  そんな状況でも、藤城は絶望したりしなかった。愛する恋人が観に来てくれる。それだけで、幸せだった。  ――彼女が座るはずの座席が、空いているのを見るまでは。  大丈夫、きっと電車が遅れるか何かで遅くなっているだけだ。  藤城はそう自分に言い聞かせた。だが、どれだけ芝居が進んでもその席が埋まることはなく、不安ばかりが募った。  嫌な胸騒ぎがする。遅刻なんてしたことのない綾香が、いつまでたっても姿を表さないなんて、おかしい。  カーテンコールを終え、まばらな拍手とともに公演を終えた藤城は、真っ先に綾香と連絡を取ろうと携帯電話を手にした。しかし、電話は繋がらない。  心臓が痛い。こんなに不安になるのは初めてだ。手が汗でじっとりと濡れて、携帯電話を床に落としてしまった。その瞬間、着信音が鳴り響く。 「綾香……!!」  ディスプレイに表示されているのは、彼女の名前だった。しかし、藤城の胸になぜか不安がよぎる。  そしてその不安は、最悪の形で“現実”となってしまった。

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