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第3話

月影に出会ったのはもう九年も前。 霞が楼に売られてきた五つの頃。桜の花に葉が付き始めた季節だった。 もう顔も思い出せない、けれど確かに愛していた母から引き離され、名を捨てろと吐き捨てられた幼い霞が、楼に入って初めて見た陰間が月影だった。 艶やかな黒い髪に白のような青のような不思議な色の簪、すれ違いざまに鼻腔をくすぐったのは白梅香だった。振り返ったその貌は、あまりに美しくて。 母よりも姉よりも、村で一番綺麗だった向かいに住むミツよりもずっとずっと美しいその人に、霞は寂しさも悲しさも忘れてその場に座り込んだのだった。 悠然と歩くその姿は幻想的で、これが現の光景なのかと。自分は夢でも見ているのではと。 「あれが今うちの一番の陰間だ。名を月影という。どうだ、美しいだろう。」 肩を叩いた楼主の声は、感じ入ったような、深い深い声だった。 そして温かみさえ感じる声と言葉をくれて、霞はほんの少しだけ安心を覚えた。 「坊主、今日から霞と名乗れ。生い茂る葉に負けじと美しい花を咲かせる桜の名だ。」 生きる術を教えてやる。 力強く言い放った楼主と月影の後ろ姿を交互に見ながら、己の新しい名前を反芻した。 貧しい暮らしを強いられてきた霞はたらふく食わされた。 痩せ細った手足に肉がつき、ぼろぼろに割れた爪が綺麗に整った頃。 霞は月影の付き人となった。 嬉しかった。 あの美しい人の一番お側にいられる。店一番の芸を、男達を魅了する手練手管をすぐお側で習うことができるのだ。 それになにより月影は優しかった。 日頃の鬱憤を付き人で晴らすような陰間も多くいる中、月影はいつも優美で蕩けるような微笑みを浮かべながら霞に色々なことを話してくれた。 それは客の話であったり、好きな食べ物の話であったり他愛のないものが多かったが、時には本を見せながら霞に文字を教えてくれたりもした。 霞と同じく月影も幼い時分にこの楼に売られてきたと聞いていたが、月影は驚くほど博識で聡明であった。 その理由を尋ねたことも幾度かあったけれど、月影はいつも曖昧に微笑んで頭を撫でてくるだけであった。 「おいで、霞。」 月影からそう呼ばれるようになったのはいつの頃だったか。 言葉も所作も芸もなにもかもを月影から習ったが、金剛さえも月影自らが務めると聞いたときは驚愕に開いた口が塞がらなかった。 呆けた顔をするんじゃないよと鼻先をつんと突いた月影と白梅の香りに包まれて、初めて床を共にした日。 其の夜は月影の細い小指を受け入れたに過ぎないが、なにか温かいものが胸に灯ったのをよく覚えている。 「いい子だね霞、上手だ。」 甘やかな声でそう褒めていただけるのが嬉しくて、いつか客を受け入れるため、秘孔を拡げるための稽古という二人だけの時間がなにより大切であった。 たとえ、日毎に受け入れるものが大きく太くなり苦しくて痛くて涙することになっても、無理をして真っ赤な血を流すことになっても。

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