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「それで、なんであの時帰ったんだ。」 改めてそう言うと、楠本は少し言いにくそうに口を結んだがすぐに小さな声で何かを呟いた。 「………が、…嫌、だったから。」 「あ?聞こえねぇぞ。」 「すぐ、見捨てられる…のが、嫌だったから…。」 「見捨てる?俺が?」 「そうだろ。…そもそも俺なんかに興味無いって、わかってるけど。わかってた、けど…優しくされると期待しそうになるのが嫌だったんだ。」 楠本は飲み終えて中身の無くなったコップをサイドテーブルへ置くと、足を手繰り寄せては抱えて座った。 小さく身を丸めてはシーツの遠くの方へ視線を向けてまた言葉を続ける。 「嫌われてるって、わかってるから。もう、大丈夫だけど。」 「誰に誰が嫌われてるんだ。」 「俺が、アンタに。」 きっぱりそう言い切ると疑いの無い目を俺に向けた。 まるで、自分が嫌われているのを受け入れているかのように。 「俺がいつお前を嫌ってるなんて言った。」 「…担任だから、気にかけてくれたんだろ。そこはちゃんと感謝してる。」 「担任でも嫌いな奴のためにわざわざ時間を割いたりしない。そんな事もわからない馬鹿だとは思ってなかった。」 「どういう、意味で……」 意味がわからない、と言う顔をするとポカンとして俺の顔を見上げた。 別に嫌っている訳じゃない。 もちろん好いてる訳でもないが。 今日までの行為はそれは確かに担任として、保険医としてだが嫌いな奴には気をやらない。 俺だってこの感情を理解出来てる訳では無い。 が、きっとこれを言葉にするのなら 「放っておきたく無いと思った。それだけじゃ不満か?」 「……保険医だから?」 俺の質問にまた見当違いな質問で返してきやがった。 随分、用心深いらしい。 確かにあの日は保険医としての感情でしか無かった。 今も大部分をそれが占めている。 が、どこかにそれとは違う感情があるのは確かだ。 この感情の名前はまだわからないけれど。 「それも、ある。だが、この俺が雨の中連れ帰ろうと思ったんだ。いいな。これ以上余計なことを聞くなよ。」 「…わかった。」 「よし。さて、聞きたいことは山ほどあるが…もういい時間だな。親も心配するだろ。」 「8時、…か。」 本当は全部聞くまで返したくないところだが流石にこの時間まで学校に留めておくわけにはいかない。 ひとまず今日は帰して明日また詳しく聞こう。 置いたままのコップを手に取り流しへ投げ込むと、小さくなった楠本の肩をつつく。 「家まで送る。先に親に電話しておくか?」 「いや、…連絡はしなくていい。」 「そうか。お前の家どの辺りだ?確か遠くはなかったはずだが…」 そう問いかけると目を逸らしては答えを悩むように口を結んだ。 まさか自分の家を忘れた訳では無いだろう。 暫く黙ったままいると、決心したように顔を上げては 「一人で帰れる。」 なんて馬鹿な事を言ったかと思うとヨロヨロとベッドから降り床に立ち上がった。 震える足もベッドに掴まる手も、どう見ても一人で帰れるようには見えないが。 「…傘はあるのか。」 「家に、ある。」 「馬鹿か。今無かったら意味無いだろ。」 「ある、本当はある……から、いい。」 「…あぁ面倒くさい。俺に逆らうな、いいな。さっさと行くぞ。」 面倒になって楠本の声を遮り腕を引っ張るとよろけたまま俺に寄りかかってくる。 相当体が弱ってるらしい。 ここまでなってもまだ強がる意味がむしろわからない。 俺は俯く楠本の体を支えて、もう一度 「逆らうなよ、いいな。」 とだけ言うと力の抜けた体を抱き上げ歩き出した。

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