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車内に会話は何も無かった。 ただガラスに打ち付ける雨の音と、タイヤが地面をひっかく音だけが響いていた。 しばらくそのまま走っていると住所通りに案内をするカーナビから目的地までもうすぐ着くとアナウンスが流れる。 「もう着くぞ。」 「ん、……」 「親に俺から説明しておこうか。」 「いい。」 楠本はそう言って俯いた。 表情が見えないが嬉しくはなさそうだ。 俺が楠本の家へ電話をした日、母親は確かに帰っていると俺に言った。 子供が帰っていないなんて知られたくないプライドの高い家なのだろうか。 …そう言えば親が医者とか言ってたか。 そんな終わりのない事を考えているとカーナビから目的地に到着した事を告げられた。 雨で歪むガラス越しに建物を見上げる。 立派な一軒家はそれなりに富裕層である事を証明していた。 「着いたぞ。」 そう声をかけても楠本の顔は上がらない。 まさか寝たのか、と振り向き顔を覗き込むと憂鬱な顔をしたまま口をギュッと結んでいた。 「…おい、楠本。」 「……帰る。」 「あ?…あぁ、帰れ。」 決心したのか顔をあげると、バックミラー越しに俺の顔を見つめた。 その顔はどう見ても元気そうには見えなかった。 どうした、と聞いてやるべきだろうか。 だが生徒を家へ返すのは教師の教師の最低限の責任に含まれるだろう。 家の前に車を止め、その上長時間無理に引き止めるのも不審だ。 「…送ってくれて、ありがと。迷惑かけて…ごめん。」 「もういい。学校は落ち着いてから来ればいい。何かあったら保健室に来い。」 「わかった。」 「気を付けてな。」 そこまで言うと楠本は頷いてドアを開け、外へ出て行った。 強い雨が楠本の体へ打ち付ける。 だが何故か楠本は門をくぐる前で立ち止まり、俯いていた。 早く入れ、と心の中で呟くが届くわけもない。 帰りたくないのか 帰れないのか 何か、帰りづらい理由があるのか。 一度自分に問う。 これは本当に俺が踏み込むラインなのかと。 教師の活動範囲なのかと。 その時、トクンと心臓が鳴った。 運命の番を目の前にして確かに小さくなった。 「…おい。」 気が付くと、俺はガラスを少しだけ開け小さな背中へそう呼びかけていた。 時々雨が車内に入り込んできて冷たい。 ゆっくりと振り向いた楠本はただ黙ったまま真っ赤な目を俺に向けた。 まるで "助けて" と泣き付くように。 「乗れ。」 「え、……?」 「早くしろ。」 その声に楠本は慌ててドアへ手をかけびしょ濡れのまま車へ乗り込んだ。 水滴が車内を濡らし、ポタポタと小さな音が後ろから聞こえてくる。 「家に帰れない理由を話すのが条件だ。」 「……、っ…わか、った。」 苦しそうな楠本の顔にほんの少し同情したのかもしれない。 家に帰ったら少し優しくしてやろうと、一人そう考えながら車を走り出した。 取り返しのつかない事をしていると自覚しながら。

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