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「……あと、何言ってないっけ。」
楠本は指折り数えてそこまで話すと、平気なふりをしてそう言った。
俺は何も言わず、いや言えずにただ楠本の下がった頭の頂点を見つめていた。
これが本当に現実に起きた事なのか?
まだ18にならない子供に起こった?
洗面器を抱える楠本の体がピクリと震える。
それから、少しずつその震えが大きくなっていく。
ガタガタと爪が洗面器に当たる音がして、それから擦り切れるような息の音が聞こえてきた。
「ひ、っ……ぃ…、っ……」
過呼吸だ。
洗面器を投げ出して苦しそうに喉を抑える姿に、ハッとする。
ただの保険医に出来ることはこれくらいだ。
治めるために宥めようと手を前へ伸ばす。
「……楠本、…」
「……や、…!!…め、…て……っ…」
そんな、千切れそうな声と同時に両腕を顔の前に掲げた。
自分を守る盾にするために。
両腕を前に出した反動で後ろへよろめいた楠本がグラリと揺れる。
手を伸ばすが届かない。
目を見開き離れていく楠本が、まるでどこか遠くへ行ってしまうような気がした。
ドスン、という鈍い音で現実へ引き戻される。
倒れた拍子にそのままベッドの下へ落ちたらしい。
俺は膝をついてそっと下を覗き込む。
楠本は両腕で顔を覆っていたが、隙間から俺と目が合うと弾けそうなくらいに目を見開いては狂ったように叫んだ。
「っ、嫌…、嫌だ!…助け、てお願い、助け…てっ、……ぁ、ああ!!」
「楠本、…」
「ごめんなさい、っごめ、っ…ぅ"、っごめんなさぃ、……嫌だ、…嫌、…ぁ"…、」
手を伸ばしたまま、俺は固まった。
叫んでは上を向いたまま勢いよく嘔吐物を吐き出し、えづきながらそれでもまだ何かに許しを求めていた。
これをどう救えばいいんだ。
自分の無責任な発言に何よりも腹が立った。
ろくに考えもないのに、その場しのぎで言葉を繋いで。
なぁ、お前はどうなるのが幸せなんだ。
こんな世界で生きているのは幸せか?
「…っ、ぅ…ひ、…っぃ、……助け、て…っ…」
「……助かり、たいよな。」
手を伸ばす。
壊れるくらいに震えた頬へ手を触れて。
「ぁ、………」
何もかも怖いなら
何もかも痛いなら。
もう、何も頑張らなくていい。
「楠本、俺が見えるな。」
「……みな、…き……?」
「あぁ。」
ベッドから降り、覆い被さるようにその体を抱きしめる。
震えはまだ止まらない。
こんな時どんな言葉をかけるのが正解なんだろうか。
優しいような温かいようなそんな言葉だろうか。
生憎、俺はそんな言葉を知らない。
でも。
そんな痛みはよく分かる。
「お前が怖くなくなるまで。いつも、どんな時も離れない。お前が望む限り一人にはしない。」
「……嘘、だ……っ…」
「嘘じゃない。」
壊れた人間が、苦しそうに泣いた。
涙を流さずに泣いていた。
「っ…一人、で…いるの、…怖いん、だ…っ…」
「そうだな。今は一人じゃない。」
「朝まで、…このまま、でい…、て…っ…」
「約束する。絶対だ。」
窓の外にはまだ星が光っていた。
傷はすぐには治らないだろう。
けれど、傷口を守れば、その血を止めてしまえば。
きっといつかは治る日が来るから。
俺がコイツを守らないといけない。
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