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小さな楠本の声は台所までは聞こえてこない。 けれど、どうやら電話の向こうが母親だということだけはわかった。 …そういえば昨日の夜話そうとしてた事の続きを聞くのを忘れていた。 「後で聞けばいいか。」 そう思い直し冷蔵庫の中を見回す。 見事な程に酒しか入っていない。 仕方なく引き出しの中を覗くがパスタとソースの缶くらいしかすぐに食べられるものは無かった。 普段は何もかもデリバリーや外食に頼っているせいだろう。 パスタの袋とトマトソースの缶を手に取り、ひとまずリビングへ戻る。 これでいいかだけ聞いてから作り始めよう。 「……いない方が、いい?」 リビングへ踏み込んだ瞬間聞こえたのはその言葉だった。 震えた声はとても楽しそうには聞こえない。 息が止まる。 俺は楠本の座るソファの真後ろに立ったまま動けなかった。 それからすぐ 「…そう。ごめん、わかった。…ごめん、ずっと…あのさ、…わかってなくて。」 と、声が聞こえたかと思うと数回吐息のようなものが聞こえ、そのまま何も言わなくなった。 耳に電話を当てたままのせいで何かを聞いているのかすらわからない。 俺はそっとソファを回り込み、楠本の顔を覗き込む。 「……おい、…」 一瞬、死んでるのかと思った。 真っ黒な目と真っ青な顔は死体かと思わせる姿だった。 思わず手を伸ばし肩を掴むとハッとした顔で俺の目を見てくる。 「大丈夫…じゃないな。」 「…いや…平気。帰らなくてもまだいいって。だから、大丈夫だ。」 「電話でなんて言われたんだ。」 「んー…いや、何も。父さんは怒ってないってことくらい。」 それがこいつの精一杯の嘘なら、俺はきっと嘘に気付かない振りをするべきだろう。 俺は「そうか」とだけ相槌を打つとそれ以上は深く追求しかった。 聞けば聞くほど、きっと追い詰められるんだろう。 「…さて、予定通り昼飯にするか。昼はパスタでいいか?」 「なんでもいい。」 素っ気なく答える姿は、限りなくいつもの楠本に近かった。 それはきっと必死に取り繕った姿で。 傷ついて絆創膏だらけの楠本に俺は笑いかけた。 お前は本当に強い子なんだな。

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