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その日はいつもと違った。
ここ数週間、同じ家から通い保健室から見送っていた皐月がいない。
誰とも会話することなく家を出て荷物を置き、それから止まってしまった。
今まで俺は一人で何をしていたか思い出せなかった。
いつも皐月に甘い物を飲ませそれから勉強を見て。
SHRに少し先に行かせてから俺も向かうところまでが日常だった。
「……なんだこれ。」
まるで一人の生き方を忘れたみたいだ。
やる事もないから仕方なくいつもより早く教室へ向かう。
今日は流石にアイツは来ないだろうが教室の様子を把握するのにもいいかもしれない。
ざわつく教室の中、黒板の前の椅子に座りぼーっと生徒達を眺める。
こうやって見ればどこにでもいる男子高校生達だがここにいるほとんどの奴がレイプ犯なんだと思うと吐き気がする。
やめろと叱ったところで何も起こらないのが今の世の中だ。
予鈴の少し前。
ガコン、と大きな音が廊下からしたかと思うとゆっくりと手こずりながら扉が開いた。
そこには車椅子に座り片手で必死に車輪を回す皐月がいた。
その目はどこか遠くを見ていてまるで感情が無いようだった。
「…おい、大丈夫か。」
そう声をかけるが皐月は見向きもせずにただ前へ進んで行く。
時々車椅子の端が机に引っかかりガタガタと音を立てた。
生徒達はそんな様子を見てクスクスと笑ったり噂話をするように小声で何かを話していた。
異様な空間だ。
俺はせめて皐月を席まで送ろうとその背を追った。
が、ソレは1度振り向くと目を合わせずに左右に首を振った。
触るな
なんて言いたそうな顔をしていた。
差し出しかけた手を引っ込めるとそのまままた前へ進んで行く。
机の中に収まっている椅子をゆっくりと引き抜くとようやく隙間へ車椅子を収めた。
「……気持ち悪。」
誰かの声が教室に響く。
その声を合図のようにチャイムが鳴った。
皐月は斜め下を見たまま微動打にせず、ただそこに存在しているだけのようだった。
「が、……学級委員長。挨拶。」
「起立。礼。」
俺の声に生徒達が立ち上がる。
教卓まで戻り、生徒の一礼を見渡す。
皐月は変わらず俯いたまま動かなかった。
特に連絡事項のないSHRを終え、また教室にざわめきが戻る。
皐月と話したい、昨日のことを伝えたい。
だが教室で込み入った話をする訳にはいかない。
仕方なく休み時間に保健室へ来るように伝えようと机へ向かっていく。
と、俺が近付いているのに気付いたのか一瞬顔が上がった。
真っ黒な瞳に光が見えない。
表情が無く、落ちた頬と口元は恐怖さえ感じる。
青白い肌に浮かんだ血の通わないような唇がキュ、と閉じられるとそのまま机へ顔を伏せてしまう。
「……後で保健室へ来られるか。」
そう声をかけるが返事はない。
それどころか、まるで聞こえないかのように何も反応すら無かった。
肩を叩きもう一度呼びかける。
「おい、楠本。」
生徒の前だからそう呼んだ。
だが、反応は無い。
意図的にシカトしているようだ。
怒っている?
昨日の事を裏切りだと思った?
けれど皐月ならそんな風にはきっと考えないはずだ。
それなら親との間で何かがあったのかもしれない。
俺を無視するような何かが。
「気が向いた時でいい。」
そう最後に言い、皐月の元から離れた。
皐月は最後まで俺の顔を見てはくれなかった。
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