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左手で力強く車輪を押す。 思うように前に進まない。 仕方なく右手を車輪に乗せ力を込めると、言葉にならない痛みが走った。 車椅子で移動するのが遅いせいで何度も授業に遅れた。 エレベーターのボタンを押そうとして教科書を床に落とした。 落としたペンが拾えないまま数分間そこに留まったこともあった。 誰も、見て見ぬふりで手は貸してくれない。 一人は楽だけど生きていくには少し不便だ。 今日はあと帰るだけだからゆっくり行こう、と左手を車輪に触れた時後ろからトントンと肩を叩かれる。 嫌な予感しかせず、仕方なく振り向くとそこには笑顔で俺を見下ろす 「やぁ、怪我の回復は順調?」 そんな先生がいた。 少し迷う。 親からは皆木と関わるなとしか言われていない。 先生の事を無視する理由はないはずだ。 悩んだ後に一度頷くと先生はまたとびきりの笑顔になった。 「そっか。車椅子で来たの見てから心配してたから安心したよ。もう帰るとこ?」 そのまま頷く。 「それじゃボクが押してってあげるね。一人じゃ大変でしょ?」 優しい言葉に慌てて左右に首を振った。 そんな手間はかけられない。 それに、もうあまり人と深く関わりたくない。 いつか関われなくなるくらいなら、いつか失うくらいなら。 今はもう独りでいた方が楽だ。 前みたいに突き放すんじゃなくて、今度はちゃんと素直に。 「余計なお世話…だったかな。」 その言葉に俺は紙に文字を書く。 『うれしい でも、一人で大丈夫』 「…そう。キミは強いね。もしなにか困った事があったらすぐボクや優に言うんだよ。我慢は禁物!だからね。」 先生がそう優しく言って笑う言葉に俺はすぐに頷けなかった。 皆木とはもうこれ以降関われない。 先生も俺が皆木と距離を置いてることには気付いてるはずだ。 ただ無視してる訳じゃない、でもあんな事を正直に伝えるわけにもいかないんだ。 「…優と何かあったんだよね。見てたらわかるよ、優も気にしてるんだ。なんで話してくれないのかなってさ。」 『ごめん きらいになったんじゃないって、それだけ伝えてほしい』 「わかった。今はボクも無理強いはしないさ。でもね、楠本クン。これだけは忘れないで。」 先生は跳ねるようにパタパタと俺の前に立つと勢いよくしゃがんだ。 俺の顔を下から覗き込んでは少し困ったような、それでも優しさに溢れた顔をした。 「ボクや優はいつだってキミの味方だよ。もう1人じゃない。…すぐ助けに行けなくてキミがたくさん傷ついた事、後悔して苦しいんだ。 ね、右手を貸して。」 そう言われ俺は頷いて右手を差し出す。 先生は手を握るとペンで包帯に文字を書いていく。 逆さで、それに小さな文字でよく見えない。 「早く治るおまじないさ。ボクが小さい頃、優がこうしてくれたんだ。」 右手を近づけて見ると『大丈夫!』とだけ書いてあった。 …確かに、少しだけ安心する気がする。 俺は紙にただ『ありがとう』とだけ書いて少し笑った。 先生の笑顔はこうやって誰かに移っていくのかもしれない。 「ボクらはきっとそばにいるよ。約束する、…すら、からね……」 震える声に驚く。 俺の手を握ったままの先生の目から涙が零れたからだ。 いつも笑顔の姿しか見たことない人の涙は苦しくて、それから不思議で。 俺はただ慌てることしか出来なかった。 「……ごめんね、辛いのはキミなのに。ボク、もう行くよ。また明日、会えるのを楽しみにしてるね。」 それだけ言い残すと先生は涙を隠すように向こうへ歩いていってしまう。 俺はその背中へ手を伸ばしては口を開けたまま何も呼び止めることは出来なかった。 先生ならきっと、俺の涙を止めるためにたくさんの言葉をくれるのに。 右手の包帯を見つめる。 大丈夫 一人でいても いつか失ったとしても 心の中は、もう1人じゃない。

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