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「皐月。」 熱に浮かされたまま床に寝そべっていた。 90°曲がった兄が俺を見下ろしては、少しだけ優しい顔をする。 手にはトレイが持たれていて少しいい匂いがした。 「腹減ってるか?」 その声に首を左右に振る。 兄は機嫌が悪くなるといつも俺に手を挙げたけれど、そうじゃなければ優しかった。 溜息をつきながらも何かしら手を貸してくれたし勉強を教えてくれる日もあった。 それはΩになる前の話だけど。 「ま、セックスの後じゃな。ここ置いとくから腹減ったら食えよ。残したら母さんが泣くぞ。」 一度頷くと兄はそのまま部屋を出ていった。 病院から帰ってきた時には食卓に俺の席はもう無かった。 部屋の前にいつも夕飯が置かれていて家族とはほぼ顔を合わせなかった。 きっと兄はそんな俺に気を使ってくれたんだろう。 だるい体を起こしてトレイの中身を見る。 大きな皿に盛られたのはミートソーススパゲティで、これが母親の手作りのソースだって事はすぐに分かった。 小さな頃からいつも煮込んで作ってくれていた。 母親はとびきり料理が上手くて、俺はそれが好きだった。 今も、好きなはずなのに。 「ぅ"、っ……」 1口、口へ運ぶけれど気持ち悪くて喉を通らない。 あれから食欲が無くなり食べようと思っても吐き気に襲われるようになった。 原因はストレスなんだろうなって事はなんとなく自分でもわかっていたけれどわかった所でどうしようもない。 胃の奥が痛くて食べ物を受け付けないんだ。 食べても履いてしまったら仕方ない。 また母さんを泣かせるんだろうな、と思いつつフォークをその場に置く。 また脱力するように床に寝そべるとそのまま目を閉じた。 下半身が重くてまるで力が入らない。 これで正解だったのか。 どこから選択肢を間違えたのか。 考えても考えても正解は見つからなかった。 * いつも家を出る8時前。 「皐月、準備出来てるか?」 ドアの向こうからそんな声が聞こえた。 そういえば今日から送ってくれるんだっけ、と思いながら俺は床を這って扉を開いた。 兄はしゃがんで俺と目を合わせると「いくぞ」とだけ言い俺の体を抱き上げた。 皆木よりも少し荒くて、皆木よりも少し太い腕。 皆木とは違う匂い。 何もかもあの影と重ねていた。 「なぁ、お前どこ怪我してんの?俺なんも親から聞いてないんだけど。」 兄に運ばれながらそう聞かれる。 どう答えればいいのかわからず、怪我をしているところを順番に指を指していく。 骨の折れた右手の指。 筋を違えている股関節。 捻挫をした右足首。 爪の剥がれた左足の指。 それから、喉、その後に腹を抑える。 「喉…は声か。あと腹?」 コクンと一度頷きどう伝えるべきかと悩む。 胃が痛い、なんて口の動きじゃ読めないだろうし今は紙もペンもない。 仕方なく胃、胃、と歯を動かす。 「いー?歯がどうした?…あ、胃か!胃が痛いとか?」 一度頷く。 「穴空いてんのかもな。ストレスで胃が痛いとか、急におっさん臭いな。」 兄はケラケラと笑っては俺を車椅子へ座らせ、ゆっくりと歩き始めた。 頭の上から聞こえる笑い声。 「懐かしいな。皐月がまだ赤ちゃんの時、俺と兄貴でベビーカー押す取り合いしてたんだぞ。皆お前に期待してた。可愛い弟だったからな。」 その声に振り返る。 優しくはない兄が、何故か切なそうに言ったから。 「ごめん」とだけ口を動かす。 兄は俺を見下ろして首を振った。 「今更遅いだろ。もう何もかもぶっ壊した後だしな。…うちの家もさ、もっと普通の家族だったら良かったのにな。」 兄の空笑いが朝の空に響いた。 クシャリとした笑顔は笑顔は昔から変わらなくて。 最後に付け足した 「俺も、お前もな。」 という声が寂しくて 俺は前を向いてもう振り返らなかった。 兄は兄なりに何か後悔していたのかもしれない。 もう、戻らない何かを。 ***** 楠本 香月(くすもと かつき 楠本家次男。 大学生。 喜怒哀楽が激しく性格があんまり良くないお兄ちゃん。 乱暴で暴力的で扱いが雑。 皐月の事は大嫌いだけど、隠しきれない優しさが時々出てしまう。 皐月の事はオナホ代わりの弟くらいにしか思ってなかったけれど親から嫌われすぎて少し同情している。

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