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その日は、酷い雨の日だった。
朝早く雨の音で目が覚めたのと同時に今日はアイツは来ないだろうと確信した。
あの川の近くには雨宿り出来るところは無かったし、雨の中アイツが来るとは思えなかった。
俺はベッドから降り、窓の外を見つめてはため息をついた。
思っていたよりも奏斗に会うのを楽しみにしていらしい。
目を擦り、それから手首に目を向ける。
『痛く、ない?』
アイツの心配そうな目を思い出すと、苦しくなった。
包帯を解き汚れた包帯を捨てる。
手首は同じ箇所を何度も切り刻まれ治りきらない傷口にまた重なるように跡が出来ていた。
「……痛くない。」
机の上のカッターを手に取り、手首に先を当てる。
沈んだ先が血に触れては先の肌を切り裂く。
鋭い痛みが気持ちいい。
痛い 生きている 他の人間と同じ。
「優くん、今日は学校には……」
扉の向こうから聞こえる声。
他人なんて知らない。
俺は、もう誰も信じない。
金に雇われた大人、金目当てで近付く大人、金、金、金。
「行かない、…お前も向こうに行け!」
「ひ、っ……わかったよ。」
ポタポタと机に血痕が落ちる。
本当は痛い。
こんな事しても何にもならないのは知っている。
学校に行けば人間らしくいられる事も、この傷が何年も消えない事も知ってる。
いつか後悔することも、全部。
それでもこの痛みだけが、この流れる血だけが。
俺が他の誰かの同じだと言うことを証明してくれるような気がして。
「………馬鹿馬鹿しい、な。」
まだ8歳の俺は。
俺を俺として、皆木優として。
扱ってくれる人に出会った事が無かった。
*
三時をすぎた頃。
外の雨はまだ降り止まず、朝よりも強くなっていた。
窓を開いて外を覗くと地面には水溜りができていて冷たい空気が部屋に流れ込んでくる。
『またね。』
奏斗の声を思い出す。
また明日会おう、そんな言葉、この雨の中で間に受けるわけがない。
でも、もし奏斗がいたら?
俺をずっと待っていたら?
俺はシャツの上から黒いカーディガンを羽織る。
外はきっともっと寒い。
大きなバスタオルを一枚と救急箱と傘だけを持って、すぐに外へ向かった。
後ろから男の声が聞こえるけど無視して走り出す。
そんな訳ない。
まさか、こんな雨の中待ってるわけない。
昨日初めて出会った知らない子供が俺の言うことを信じるか?
金も渡していないのに。
まさか、そんなこと
「………優。」
大雨の中
川沿いの河川敷。
泥とぬかるんだ水たまりの真ん中で、奏斗は小さくなって俺を見上げた。
傘も持たず、昨日と同じTシャツだけを着て。
頬に出来た痣を隠す用に伸びた髪を垂らしていた。
「奏斗、ずっと待ってたのか…?」
「ん。…キミが、また明日って…言った、から。」
バチバチと雨が傘に突き当たる。
奏斗は不器用に笑うと俺に手を伸ばした。
俺は、その手を握ろうと傘を持ち替えるが手に触れるより先に奏斗の体が水溜りに落ちた。
「奏斗…!?」
水溜りに溺れるみたいに奏斗は動かなくなってしまう。
Tシャツから見える手足は俺よりずっと細くて、あちこちに痣や傷が見えた。
俺は救急箱なんて投げ捨て駆け寄るとバスタオルを体にかける。
それから水溜りに落ちた顔を持ち上げては覗き込んだ。
苦しそうな顔と熱い頬。
「……どこが、痛い?」
「お腹、いたい……あと、頭と…ここ、…」
奏斗は両手で心臓を抑えるとボロボロと涙を流した。
雨に紛れてよく見えなかったけど、確かに泣いていた。
「苦し、い…よ……」
慌てて救急箱を開くがどうすればいいのか分からなかった。
どうしたら奏斗が痛くなくなるのか、俺は知らない。
包帯を巻く?薬を飲ませる?
奏斗のどこが悪いのかわからない。
金を払えば奏斗を治してくれるだろうか。
そんな事しか思いつかなかった。
結局、俺には金しかなくてそれ以上何もなくて。
それでも 奏斗を救えるなら。
「優……?」
「すぐ治してやる、だから…」
傘を捨てて、奏斗をおんぶする。
同じくらいの身長なのに軽くてびっくりしながら歩き出す。
家まで連れて言って、医者に見てもらおう。
いくらでも払うから一番いい医者に治してもらおう。
「……治ったら、俺と…友達になってくれ。」
「ん……ボクも…優、と…友達になりたい…」
奏斗のか細い声に歩いていた足を早める。
まだわからないけど、奏斗なら俺を見てくれるかもしれない。
本当の友達になってくれるかもしれない。
雨の中、傘もささずに走る。
誰かのためになんとかしたいと初めて思った日だった。
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