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それは18歳の三月の頭だった。 朝の5時、俺は取りたての免許でバイクを走らせ大きな塀の裏で待機していた。 まだ辺りは薄暗かった。 裏口の前で冷えた手を擦りながら親友を待つ。 それは、俺達の必死の反抗だった。 正面から家を出ると言って許してもらえるだなんて期待は最初から無かったため、家出の形式を取ることに決めていた。 家を出てしまえば親にもう権限はない。 本当は裏で何かと手回しはしていたが、奏斗へはそう言っておいた。 冷たい風が吹く中、塀の中からドタバタと騒がしい音が聞こえ誰かの怒鳴り声が反響する。 俺はハンドルをギュッと握りしめそのまま裏口を見つめていた。 「何があっても、家の中には入ってこないでね。」 それが奏斗からの頼みだったからだ。 * 朝5時、裏口前で待ってる。 必要最低限の物だけ持って出てこい。 優からはそれだけ聞いていた。 その日も深夜までお世話が続いて、ボクは体を洗ってから慌てて準備を始めた。 この時間なら父親も信者も近くにはいないから安全。 の、はずだった。 鞄一つ分の荷物を背負い、足音を殺して庭へ踏み出したボクの後ろから父親の声が聞こえるなんて事はありえないのに。 「かな、こんな時間に荷物持っておでかけか?」 その声にボクは心臓が止まるかと思った。 振り向くと、父親は怖い顔でボクを睨みつけては片手にお仕置きで使う細い木の棒を持っていた。 アレで叩かれると3日は跡が消えないし、それくらい痛いってことを知ってる。 ボクは声が出なくて震えながら父親を見つめた。 「今、帰ってきたら優しいお仕置きだけでやめてやろうな。ほら。帰っておいで。」 その声に心が揺らぐ。 何をされるかわからない、それは前から思っていた事で。 ここで家を出たって人間らしく暮らしていける保証はどこにもなかった。 すぐに連れ戻されて死ぬより辛い目に遭うかもしれない。 それくらいなら…なんて思ってしまう。 でも、そんな時、頭にあの日の優の言葉が浮かんだ。 『二人で生きていこう。こんなクソみたいな世界抜け出せばいい。なぁ、俺達は幸せになれる。』 ボクはもう 一人じゃない? 優が 本当に傍にいてくれるなら。 こんな世界も全て変わって 幸せになれる? 「かな、おいで。」 強くなりたい 泣き虫はもう嫌だ ボクは笑ってるんだ 優の親友に相応しいような人間になって それから 見返してやる "奏斗は、自慢の親友だ" ボクは 「かな。」 「…ボクは奏斗だ…!!」 震えた声でそう言い放つ。 父親に反抗したのはいつぶりだっただろう。 父親は驚いた顔をしていたが、すぐに血相を変えた。 それは鬼より怖い顔で ボクはガクガクと震えが止まらなくなる。 「あぁ、そうか。逆らうんだな。」 「…っボクは男だ、ボクはαだ…!あんたの望むような子供にはなれないし、なりたくない…っ」 「そんな態度で、許されると思ってるんだなぁ!?」 張り上げた声があたりに響き渡る。 父親がボクへ掴みかかると、髪を引いて地面に叩きつけた。 砂埃が舞って目が痛い。 足がすくんで動けない。 嫌だ、ボクは こんなに弱い人間じゃないんだ。 「もう言いなりなんてならない、っ…ボクは…あんたも、あんたの信者も嫌いだ…!!父親だなんて、…もう、思ってない!」 全身の体を振り絞り、父親の体を突き放す。 逃げないと ここから出て行くんだ。 もうひとりじゃない。 優がいる。 新しい明日がある。 ふらつきながら裏口へと駆け出すと、後ろから父親が何度もボクの名前を呼んだ。 かな、かな、と女の名前を呼んだ。 裏口へもう手が届く、という時 肩へ大きな手が触れた。 その手はボクの肩を強く握り込む。 「…かな、行かないでくれ。お前ならきっと器になれるんだ。…愛してるんだ、かな。 お前を 大切にしてきたつもりだった。外に出したのが間違いだったか?…なぁ、父さんを一人にしないでくれ。」 父親はそう言って顔をグシャグシャにして泣いた。 初めて父親の涙を見た。 ボクはその顔を見て裏口へ伸ばしていた手をダラン、と落す。 「……お父さん、…ボク、普通の家に生まれたかったよ。こんなに大きなお寺じゃなくて。普通のお父さんと普通のお母さんに愛されたかった。 ボク、ここにはもう居られないよ。」 まだ、うんと小さな頃 お父さんとお母さんに両手を握られて歩いたお寺の廊下が好きだった。 春には枝垂れ桜が咲いて、秋には小さな紅葉が見られる庭が好きだった。 そんな他の家にない、特別なこの家が大好きだったんだ。 お父さん ボク、悪い子で ごめんなさい。 最後まで いい子になれなかった。 「………かな、…」 「…ごめん、な…さい。」 「…行くな、…かな、っ……」 ごめんなさい 望む子供に なれなくて 裏口を開き、前へ進むと父親の手はボクの髪を掴みそれから離れた。 最後に張り裂けそうな声で 「絶対に連れ戻す、手放すもんか…っ、かなは…か、なは…俺のだ……っ、!!」 と叫んだ。 ボクは振り向かずにそのまま歩き出す。 すぐ側には優がいて、バイクに跨ったまま「早く来い!」と叫んでいた。 ボクはバイクに跨り、ヘルメットを被ると優にしがみついたまま目を閉じた。 きっと 父親はすぐボクを探しに来るだろう。 そしていつかは見つかってまたこの生活に戻るだろう。 それはこれ以上に無い不幸で、起こって欲しくない未来である事は確かだけれど。 「奏斗、大丈夫だったか?…出ていくとこ見つかったんだろ。」 「……うん。お父さんの事…、泣かせちゃった。」 ボクは親を泣かせて 親の望んだ生き方をせず 親を嫌い 親に歯向かい それから 親を見捨てた 正当防衛であるはずの、この行為が酷く罪悪感に襲われたのは既に洗脳されていただろうと頭のどこかでは分かっているはずなのにこの時のボクは苦しくて辛くて仕方なかった。 「そうか。…なぁ、奏斗。奏斗は親の事、嫌いか?」 優は真っ直ぐ前を見て運転したままそう呟いた。 それは親のいない優の色んな気持ちの混ざった質問だった。 「好きじゃない。…でもね、嫌いに…なりたく、ないって…ずっと思ってた。」 「…そういう、もんか。」 「わかんない。ボクもキミも、きっと普通じゃないから。」 3月の冷たい風が肌に当たる。 家の門の向こうに、ピンクの花びらが見えて枝垂れ桜だとすぐに気付いた。 今年も咲いたんだって、思ったけれどもう一緒に隣で見てくれる両親はいなかった。 18の春、大学に入学する一ヶ月前。 ボクらは 二人ぼっちで生きる事を決めた。 自由をやっと、手に入れた日だった。

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