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*時は少し遡り、金曜日の放課後
「皐月、帰るぞ。」
鞄に荷物を入れようとしていた所、教室の入口から聞こえた声に頭をあげる。
そこには笑顔で手を振る兄がいて反射的に体が強ばる。
…今は、優しいな兄なのか怖い兄なのかどちらかわからない。
「先生、俺入っても大丈夫ですか?」
「あぁ。」
SHR直後の教室にはまだ皆木がいたが、兄は一言断ると俺の方まで向かってくる。
まだほとんどの生徒が残っている教室では必然的に目線が集まってきてしまう。
兄は俺の傍まで来るとしゃがんでいつもの調子で話し出した。
「荷物纏めてやるよ。その手じゃ無理だろ。」
鞄を取り上げられ、机の中の荷物が押し込まれていく。
俺は何も言わずただそれを見ていた。
傍から見れば面倒みのいい兄と弟に見えるだろうか。
…俺でさえも今はそう錯覚できる。
「よし、帰るぞ。さっき母さんがアップルパイ焼いてたから帰ったら珈琲淹れて食うか。焼きたてだぞ。」
俺は一度頷く
「…いや、お前苦いのダメだったっけ。帰りに紅茶買うか?」
俺がコクコクと頷く。
調子の良い兄の声と、無言の俺は歪だ。
そのまま教室を出てエレベーターへと向かう。
兄は相当機嫌が良いらしい。
帰り道も勉強はついていけてるのか、とか
リハビリ家でも多少はできるだろ、とか
風呂1人で入れてるのか、とか
そんなたわいない会話に優しさが見え隠れして俺はどう反応すれば良いのか分からなかった。
でも、昔のまだ仲が良かった頃に戻ったみたいでほんの少しだけ安心していたのが本音だった。
「ただいまー。」
家に入ると兄はそう声をかけながら俺を車椅子から下ろした。
玄関に座らされ、そのまま鞄から水筒を出してくれる。
「俺、これ出してくるからここで待って……」
待ってろ、と言いかけた兄の声に重なるようにリビングの扉の開く音が聞こえた。
俺と兄は同時に顔をそっちへ向ける。
「香月、おかえりなさい。これアップルパイ焼いたから部屋で食べ……っひ、ぃ……っ、!」
「母さ、…っ」
ガシャン、と音がしてそれから顔の半分がジワジワと熱くなってくる。
母親は俺の顔を見るなり悲鳴をあげると皿ごと俺へ投げつけたかと思うとそのままリビングへと逃げるように帰っていった。
兄は母さんの背中へ手を伸ばしていたがすぐにその手で頭を搔くと大きくため息をついた。
シナモンの香りがそこらに舞って、ドロリとした林檎が顔から首へと垂れていく。
熱い。
でも、このなんとも言えない胸の痛みに比べれば痛いとも思わなかった。
「珈琲どころか菓子も無くなったな。」
ごめんなさい、と口を動かすが兄は多分俺を見てはいなかった。
「…あちっ、…お前このままじゃ顔面火傷になるぞ。」
俺が平気だ、と左右へ顔を振るが兄は袖で俺の顔を拭った。
その妙な優しさは居心地が悪くて俺は目を伏せたまま顔を見れなかった。
「あーあ。片付け、俺がやらねぇとな。」
兄はストン、と俺の隣へ座ると床へ落ちたアップルパイの中から皿の破片の無い所を拾い上げる。
それから一口食べると「うん、美味い。」と少しだけ笑った。
俺も真似して端の方を拾って一口食べてみる。
まだ胃が痛くて、少ししか食べれないけれどその優しい味と甘さは確かに母親がよく作ってくれた味だった。
「母さんも、お前に食わせたくて作ったんだろうな。お前これすきだって昔言ってただろ。」
俺は首を傾げる。
確かに好きだけど、面と向かって言ったことは無かったはずだ。
…どこかで口にしたっけ。
「本人が覚えてなくても、1回言われた嬉しい事は忘れねぇんだな。…ま、何年前の話だって感じだけど。
…さて。」
兄はそこまで言うと、まだ片手にパイを持ったままの俺を急に抱き上げる。
そのまま階段へ向かうとさっきまでと同じ優しい兄の顔のまま
「良い兄弟をしたとこで、部屋に戻ったらお話しような。皆木先生への相談、ちゃーんと俺が聞いてやるからさ。」
と言った。
俺はコクリと一度頷き手の中のパイを口へ押し込む。
朝から分かっていたことだし、別に驚きはしなかった。
ただ、もう少し昔の話を聞きたかったな。
なんて少し甘えた事を考えてしまっていた。
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