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夢に見たのは、あの一番幸せだったと思えた優しい日々で。
遠ざかる背中に俺は「許して」とそう叫んでいた。
「ひ、っ……」
掠れた息と同時に目が覚める。
バクバクと心臓が鳴るのが苦しくて蹲ると足の先に何かが触れた。
慌てて目を開くと兄は目を丸くして俺を見上げた。
「…汗凄いぞ。うなされてるなとは思ってたけど一体どんな夢見たらそうなるんだよ。」
機嫌を損ねかねない。
俺は左右に首を振ると目を閉じゆっくりと数字を数える。
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
そこまで数えると徐々に心臓の音が収まっていく。
「ったく、頼むからそれ以上面倒事起こすなよ。お前これからやんなきゃいけねぇ事山ほどあるんだから。」
俺は1度頷き、上半身を起こす。
すると兄は手に持っていたタブレットをベッドへ投げるとニッと大袈裟に笑った。
「よし、いい覚悟だ。まずは一番不便なとこから治すか。」
「………?」
「そんな目で見んなって。リハビリ、その程度なら家でも出来るらしい。手伝ってやるから自分で歩けるようになれ。」
言葉は優しくないが、それは確かに優しさのように聞こえた。
俺がコクコクと頷くと兄は早速リハビリの方法を説明し出す。
俺が眠っている間にあれこれ調べていてくれたらしい。
「とりあえず股関節はそんなとこだな。あと、足首の捻挫は、荒治療でとりあえず動かした方がいいらしい。……ってそんな目で見んなよ。そう書いてんだから仕方ないだろ。」
とりあえず動かすって何をされるんだ、と顔を歪ますと兄はクスクスと笑った。
俺はその笑顔につられて少しだけ笑えた気がした。
なんだかおかしな感じだ。
これが、お互いの利益のための約束だったとしてもこんな風に誰かに…ましてやあの兄に思われるだなんて。
「ほら、俺に捕まっていいからとりあえず立ってみろ。目標は来週から一人で登校な。」
その声に頷く。
いつまでも、この優しさには甘えてられない。
俺、1人で。
人間らしくならなきゃならない。
*
ザワザワと騒がしい教室の中で、小説のページを一枚めくる。
特に興味の無いそれはあまり面白くはない。
と、退屈なまま読み進めていると急に教室がシンと静まり返った。
なんだ?と、顔を上げると楠本がゆっくりと黒板の前を歩いていた。
「…なんだ、もう歩けるようになってんじゃん。」
誰かがそう言った。
確かに先週までは兄弟に車椅子を押されて登校していた楠本は、今は自分の足で歩いている。
まぁ折れては無いって言っていたしリハビリをすれば治るものだったんだろう。
「千葉ー、先生が呼んでたぞ。お前日直だろ?」
「え?」
ぼーっと楠本を見ているところに後ろから声をかけられる。
驚いて間抜けな声を出すとクラスメイトは茶化すように笑った。
「なんだ?お前もΩに酔ってんの?」
「そんなんじゃない。…より、呼んでたって皆木先生か?」
「そーそー、保健室まで来いって。」
「わかった。」
そう言い、礼を伝えると小説を机の上に置いたまま立ち上がる。
視界の端では誰かが楠本の体を突き飛ばして机や椅子が床に擦れる音が響いていた。
それがこのクラスの日常だから、今更誰も止めたりしない。
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