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なんとなく。
ノックをしようとした手を下ろして、聞き耳を立てる。
中からは小さくあの人の声が聞こえた。
「ねぇ、優。夏休みどっかいこーよ。」
「はぁ?三年の担任に夏休みがあるも思うなよ。」
「…それもそっか。でもでも、お盆は学校も休みだし。」
「あー…ま、それくらいなら俺らも休めるか。」
人目を気にしない、あの人たちの素の会話だ。
そう言えば先生と出会った日もこうやって聞き耳を立てていた。
聞かれたくないようなあの人の秘密を聞いて特別になったような気がしていた。
…そりゃ、嫌われもする。
もう悪い癖はやめよう。
と、ドアから体を離しノックをする。
「入っていいぞ。」
皆木先生の声に扉を開き中を覗き込む。
奥に座った先生は俺の顔を一瞬だけ見るが、すぐに手元の携帯へ目を逸らしてしまう。
当然の反応だろう。
「日直だな?そこのプリント持っていってくれ。」
「はい。」
「それと…千葉だったな。千葉、朝のクラスの様子はどうだった?」
「え?」
要件は終わりだろう、と出ていこうとした背中に声をかけられ振り向く。
先生は少しだけ難しい顔をしていた。
どう、と言われても仲が良いとは言い難いクラスだ。
…どういえばいいのか分からない。
「あー…そういえば、楠本が歩いてました。ほかはいつも通り。」
「車椅子じゃなくなったって事か?」
「はい。まだ、ヨロヨロしてましたけど。」
「…わかった。もう戻っていいぞ。」
1度会釈してからドアを閉める。
出ていく直前まで先生を見ていたけれど、先生は一度も携帯から顔を上げなかった。
でも、携帯に触れた先生の指は一度も動いていなかった。
*
階段を上り廊下へ向く。
と、床には教科書が散らばっていてその隣には丸くなった誰かが倒れていた。
誰かは大体、想像つく。
「…楠本。」
俺がそう呟くと、楠本は前髪で隠れた目で俺を見上げた。
床に持ってきたプリントを置き傍にしゃがむ。
血は出てないみたいだが目は少し虚ろだ。
でも俺は保険医でも医者でもない。
見たところで何をされたかなんて分かるわけない。
「自分で立てるか?」
一度頷く。
「…そう。」
楠本はよろよろと体を起こすと暫く俯いたままその場で項垂れていた。
俺は、散らばった教科書を鞄に入れると楠本の傍へ置きもう一度しゃがんだ。
ぼーっと床を見つめたまま動かない。
「どこか痛いか?」
頭を左右に振る。
「…そ。今日は兄ちゃん一緒じゃないんだな。」
一度頷く。
それは、ぼんやりしていると言うよりは放心状態という感じで。
俺は足がだるくてその場で胡座をかく。
暫く無言のままそこにいたけれど、ようやく楠本は鞄へ手を伸ばした。
それからノートを引き出すと薄い文字を並べた。
『おれといると、何かされるかもしれない』
「されたらその時考えればいいし。」
『なんでお前はおれをいじめないんだ?』
二回目に書かれた文章がおかしくて俺はなんとなく笑った。
なんでいじめないんだって。
まるで、いじめるのが普通みたいに言ったからだ。
「なんでって…まぁ、強いて言うなら俺はβだから?お前の匂いなんて何もしないし別に虐めたいとも思わない。」
『αじゃなかったんだ』
「…まぁ、そう。安心したか?」
そう言うと楠本はペン先で何度かノートをつつく。
次の言葉を悩んでるらしい。
俺はじっとノートを見つめる。
暫くしてから楠本はようやく
『ちょっとだけ。』
と小さな文字を並べた。
「そう?なら、よかった。」
俺がそう言って笑うと、楠本も不器用に少しだけ笑った。
なんとなく、これも非日常っぽくていいなと思った。
筆談はテンポが悪くてでも、その分次の言葉を楽しみに出来る。
楠本も思っていたより話してくれるらしい。
なんて思っていると、楠本は急に俺の後ろを見てはビクリと体を揺らした。
これから鞄を拾い上げると慌ててその場に立ち上がる。
「ん?どうかした?」
俺の声に首を左右に振ると、フラフラと壁に掴まりながら教室へ戻っていく。
俺が来る前に廊下へ突き出されたはずなのに根性があるな、と思っていると後ろから低い声が聞こえた。
「…おい。」
「あ。」
皆木先生は少し怖い顔をして俺を見下ろす。
プリントは床に置いてるし、廊下にこんな風に座ってちゃそりゃ怒られる。
慌てて立ち上がると先生は見当違いなセリフを言った。
「…楠本、怪我してなかったか。」
俺はその言葉に少し戸惑ったが、「多分」とだけ曖昧な返事をした。
先生はそれ以上何も言わずに教室へ入ってしまう。
教室の奥でふらつく楠本が見えた。
俺は、後ろからその楠本を見る皆木先生を見ていた。
あぁ。
時枝先生はいつもどんな気持ちでこの人の後ろ姿を見ていたんだろう。
なんて、そんな風に思いながら俺はその白衣を追った。
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