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弟が自分で登下校できるようになり、久しぶりに友達と寄り道をして帰った。 今日は特に暑くて、外にいるだけで汗が滲んできた。 「ただいまー」 そんな中、手で顔を仰ぎながら家に帰るとすぐにエプロン姿の母親が出迎えてくれる。 リビングからは冷たい空気が流れ出てきていた。 「おかえり、香月。暑かったでしょ?今日の夕飯は冷たいうどんにしたから手洗ったらおいでね。」 「ん。すぐ行く。」 母親がリビングへ向かったのを見て、とりあえず荷物を置こうと自室へ向かう。 弟に今日のこと聞いて、それからすぐに夕飯を食べて上に持ってきてやろう。 と、弟の部屋の前に立ち扉へノックする。 「皐月ー。」 返答がない。 …疲れて寝てんのか? 「開けるぞ」とだけ声をかけ扉を勢いよく開いた。 が、蒸し暑い部屋に弟の姿は無く、それどころか帰ってきた様子もない。 「……は?」 慌てて階段を駆け下り、まさか仲良く晩飯を食べてるなんて訳はないだろうがリビングを覗き込む。 が、やっぱりそこに姿はない。 俺の慌てた様子に母親は「どうしたの?」と首をかしげた。 「あー…皐月、帰ってきた?」 母さんはポカンとしたまま俺を見ていたが、すぐに表情を無くすと 「…知らない。」 とだけ呟いて後ろを向いてしまう。 隠してる、とかで無くその話題を出して欲しくなかったって顔だ。 つまりアイツは帰って来てないけど…って事か。 学校にいるのか、それともどこかで野垂れ死んでんのか。 どっちにしろ何かあったのは間違いないだろ。 『生きるの手伝ってやる』なんて。 大口叩いておいてここで放っておくのも男じゃない。 リビングから出て二回に上がる階段に座り、弟の学校名を検索にかけた。 すぐに出てきた電話番号へそのまま電話をかける。 時間は七時前。 誰かしら、まだ出てくれるだろう。 『はい。南浦高校、職員室です。』 「…あ。すみません…3年の楠本の保護者なんですが。」 『どうしました?』 「まだ家に帰ってなくて。学校に残ってるのかなと。」 『確認しますので少々お待ちください。』 その声の後、すぐに保留音が流れる。 懐かしい曲。校歌だ。 …ふと、弟と同じ歳の時どんな風に過ごしていたかを思い出していた。 ごく当たり前のように恵まれた生活をしていた。 誰かの上に立つことが当たり前だと思っていた。 「……皐月、いつから…あんな暗くなったんだっけ。」 ポツンと呟く。 俺の生きていた中で、弟の記憶が曖昧過ぎる。 …あぁ。 それくらい俺はアイツを気にせずに生きていたんだな。 『大変お待たせしました。担任の皆木です。』 「あ、…どーも。皐月の兄です。」 『兄?あぁ…この前はどうも。事情も知らず変な口を聞いてすみません。それで…彼が家に帰ってないと?』 「そうなんですよね。学校にはもういませんか?」 『教室には。少し、心当たりがありまして。』 「心当たり?」 担任は皐月は終礼の時に教室にいなかった事、その後姿を見ていない事を口にした。 …分かっててなんで探さなかったんだと聞いたがそれだけじゃ探す理由には足りなかったとだけ言うとすぐに非を認めてくれた。 『また、進展あり次第連絡を…』 「あの。」 そのまま会話を終えればよかったが、何となく腹が立った。 自分の事を棚に上げ我ながら偉そうに 「どういう教育してたら、生徒が生徒に暴行するような環境になるんですかね?」 と言ってみる。 そりゃもう、俺が言えたことじゃないんだけど。 平謝りでもしてくれたらすぐに許すつもりだったが電話の向こうの教師は黙り込んでしまった。 そんなの、あんたの責任ではないもんな。 そう同情したが暫くしてから絞り出すような声で 『……本当にな。』 と呟いて電話が切れた。 プープー、と鳴る電子音に俺は間抜けな顔で携帯の画面を見つめる。 今の一言はなんだ? 呆れた声でも、面倒なクレーマーへの怒りでもない。 "どうしてなんだ" と 腹の底から苦しんで嘆くようなそんな言い方だった。 「……あんた、皐月のなんなんだよ。」 まだ1度しか顔を合わせてない教師に酷い嫌悪感を抱く。 こんな男に任せていたくない。 階段から飛び降り玄関へ向かう。 さっき脱いだばかりの靴をもう一度履いて、リビングへ向かい一言 「悪い、すぐに帰ってくるから!」 とだけ叫び家を飛び出す。 後で父さんの雷が落ちるだろう、母さんは悲しい目で俺を見るだろう。 でもなんとなく。 今は兄貴をしたい気分だったんだ。

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