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枯れた声。
夕飯を食べながら、時計を見上げる。
もう七時を過ぎているけれど皐月は一向に帰ってこない。
昨日に比べて今日も…そんな事ありえるのか。
口に入っていた生姜焼きを飲み込んで正面に座る母さんへ目を向ける。
「ちょっと、俺電話。」
そう言った声に隣の父さんが顔を上げる。
それから、怒ったような声で
「皐月か?」
とだけ言った。
俺が頷くと、父さんは更に強い声で「行くな。」とだけ言う。
母さんは顔をあげなかった。
「行くな…って。帰ってきてないんだぞ。心配だろ。」
「放っておけ。まともに見の管理も出来ないやつなんかどうでもいい。」
「……でも、もしかした、ら…」
「口答えするな、お前も同じ扱いをされたいか?」
その言葉に、次に用意してた言葉が言えなくなる。
もしかしたら、また一人で死にかけてるかもしれないよ。って。
結局は我が身可愛さで何も出来なくなる。
皐月がどうなろうが俺には関係ない。
その関係無い奴のために自分の立場を悪くする必要は無い。
「……いや。やっぱいい。」
「よかった、お前が馬鹿じゃなくて。」
父さんはそれだけ言うと味噌汁を飲み干してリビングを出ていった。
シンとしたリビング。
母さんはぼーっと白米を見つめていた。
「…ごめん、母さん。」
「ううん。いいの。ねぇ、香月。お母さんね、お父さんと香月とお兄ちゃんが居たら充分よ。」
「え?」
「2人だけでいいの。今は香月がいるからいいの。他の誰かなんて、いらないし知らないよ。」
母さんはそう言って、優しく笑った。
俺は味噌汁を飲みながら一回だけ頷く。
そう。
母さんからすれば皐月が帰ってこない方がいいんだよな。
死んだ方が 消えた方が いない方が。
俺だって同じはずだった。
あんな親を怒らせるだけの人間、いらなかった。
でもなんだよ。
アイツもアイツなりに、案外必死に生きてんだよ。
なんだお前らは気付けないんだ?
いつも助けてくれって腹の中で思いながら誰にも言えずに落ちていったアイツを見て何も思わなかったって言うのか。
弱音を吐くことを許さなかったのも
弱音を吐けない環境にアイツを置いたのも
全部
この家なのに。
「ご馳走様。」
手を合わせてリビングを出る。
携帯の画面、発信履歴の一番上。
ここに電話をかけて
うちの弟が帰ってきません
といえばあの教師はまた、血眼になって探してくれるだろう。
今となっては世界で一番にアイツを大切にしてくれている。
俺なんかよりもずっと。
「……今更、俺なんかが何正義ぶってんだ。」
アイツには俺よりも求めてくれている人がいる。
俺が家に引き戻すより、幸せになれる場所がある。
携帯をポケットに押し込んでそのまま部屋への階段を上がっていく。
案外、もしかしたらあの教師の家で美味い飯でも食ってるかもしれない。
大切にされてるかもしれないだろ。
階段を登りながら、古い記憶を思い出していた。
『おにーちゃん!僕もおしゃしゃさんなれる??』
『お医者さんな?俺達ととーさんのいうこと聞いてたらぜってーになれる!』
『やったー!ぜってーーになる!』
『皐月はほんと、お兄ちゃんっ子ね。』
『うん。おにーちゃん大好き!』
この家は確かに厳しかったけれど、皐月だけは無邪気でいつもあの笑い声がこの家に響いていた。
真似したがりで素直な子供だった。
「………っ、くそ……何思い出してんだよ。」
あの弟を殺したのは誰だっけ。
なんて、考えて腹の奥が気持ち悪くなる。
あんな弟どうでもいい。
根暗で、頭も悪くて、口が汚くて、出来損ないの。
ゴミみたいな弟。
「誰が、…そう、したんだよ。」
階段に座り込んで床を見つめた。
這いつくばってここを登りながら、アイツは何を考えたんだろう。
平気な顔して、表情を変えずに遠くを見つめながら。
本当は腹の底で「助けてくれ」って泣いてたんだろう。
それを分かってて、アイツを踏みにじった。
俺にアイツを探しに行く資格なんてもう少しも無い。
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