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ベッドの上で横になりながら携帯をいじる。
弟が帰らなくなってからもう一ヶ月が過ぎた。
それはあっという間で、もういない事に慣れている。
世間は夏休みで、本当なら弟は受験に向けて猛勉強をしているはずの時期だ。
そう言えば春頃の皐月も連絡なく家に帰ってきていなかった。
何をしてるんだ、と思っている頃リビングで母さんが電話をしているのを聞いた。
「帰ってこなくていい」
要約した内容はそうだ。
それでも連れ戻された弟は暗い目をして、この家でどう息をすればいいのかわからないようだった。
「…また、今連れ戻されても同じか。」
今頃、あの教師と仲良くスイカでも食ってるんだろうな。
なんて思いながら携帯の上の指を滑らせる。
その時、コンコンと部屋の扉がノックされる。
「はい。」
「香月、今は暇か?」
「え?別に暇だけど。」
母さんかな、と思っていたけれど扉を開けたのは父さんだった。
相変わらず怖い顔をした父さんは俺を見下ろしてただ淡々と言った。
「皐月の部屋の片付けをしてくれるか。」
「…片付け?」
「もうアイツは帰ってこないだろ。帰ってこさせる気もない。部屋の物を捨ててくれ。」
「え、…でももしかしたら帰ってくるかもよ。」
「もうこの家には入れない。頼んだぞ。」
「いや、ちょっと…!」
父さんは俺の呼び掛けなんて無視して部屋を出て行ってしまう。
…正直、俺だってもう帰ってこないと思う。
でも帰ってくる家を奪うのは流石に酷い。
そうじゃなくても人の部屋の片付け、なんてあんまり気が進まない。
「はぁ…逆らっても無駄か。」
仕方なく立ち上がり、ずり落ちたズボンを上げて隣の部屋へと向かう。
そう言えば いつも俺の部屋に連れてきていたけれど皐月の部屋に入った事はほとんど無かった。
*
ノックも無しに扉を開ける。
1ヶ月も人が入らなかった部屋は埃っぽくて、すぐに窓とカーテンを開けた。
遊び心のない部屋は殺風景でそんなに片付ける物も無さそうだ。
とりあえず勉強道具から、と机の上の教科書や参考書、ノートに手を付けてそこでもう嫌気がさした。
角が折れたり足跡のある教科書。
水に濡れた跡や明らかに異常な傷。
「…いじめ…られてたんだな。」
そうだろうな、とは思いつつ目の前で弟がいじめられている所を見てきたわけじゃない。
染みの出来た鞄や血痕のついたノートは見てられない。
全部ゴミ袋行きだ。
あれこれよく水にゴミ袋へ投げ入れていく中、ふと持ち上げたファイルから紙がバラバラと落ちてくる。
「んだよ……、…ルーズリーフか。」
何の気なしにそれを手に取る。
行を無視して斜めに書かれた文字。
勉強…じゃなくて、セリフ…会話?
『大丈夫』
『ほうかごにはすぐに戻るから』
『いたくない』
『かぞくもやさしくしてくれる』
『ありがと』
『みなきの分は?』
『めいわくはかけたくない』
『一人で平気だ』
声の出なかった間、ずっと筆談で会話していたんだろう。
この相手は皆木…あの教師だろう。
嘘で塗り固めたみたいな会話。
大丈夫、平気、そんなの嘘のくせに。
全部丸めてゴミ袋へ投げ入れる。
他のノートも教科書も、全部グチャグチャなのに。
「…この会話の跡だけは、傷が付かないように保存してたのか。」
きっと、いつか見返せれるように。
こんな嘘でもアイツにとっては思い出だった?
ルーズリーフの間から時々破られた紙や裏紙が出てくる。
それは皐月の文字ではなくてもっと達筆な他人の字。
『1時までには寝るように。無理はするな。』
『昼は会議があるから先に食べててくれ』
『今日の夕飯はお前の好きなものにする。考えとくように。』
どうやらあの教師からの置き手紙らしい。
皐月は手紙を大切にするタイプだったか。
そんなの俺にはわからない。
でも、この手紙はきっと。
俺の知らない皐月のほんの少しの癒しで。
幸せだった日々の 痕跡なんだろう。
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