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体温

その日は土砂降りの雨だった。 昨日の夜、曇空はとうとう真っ黒に染まり雷と一緒に雨が降り出した。 それから雨は上がらない。 天気予報によるとこの雨が上がると少し涼しくなるらしい。 そんな雨の中、何万もする傘をさし高価な靴を鳴らしながら俺はいつもの路地を歩く。 そういえば アイツがいなくなったのもこんな雨の強い日だった。 変わらない扉を開き、今日だけはいつもと違う扉の前に立つ。 店に電話をする時に「サツキ」という男を予約した。 拘束を解いて綺麗な服を着せてくれとの条件付きで。 雨に濡れた肩をハンカチで拭い、白い扉へ手をかける。 何故か冷静だった。 俺が焦れば、俺が間違えれば 二度と会えない気がしていたからかもしれない。 その扉は驚くほど簡単に開かれ、そして目の前に会いたくてたまらなかった人が映し出された。 白いシャツを着たその男はどうしてか後ろの壁を見つめ、その顔は見せてはくれなかったけれど。 俺は近くの机へ鞄を置き靴の鳴らしながらベッドのすぐ近くまで距離を詰める。 湿った空気の中、俺達は沈黙の中で息をする。 俺はベッドへと腰掛け、ようやく声を発した。 「皐月。」 確かに、その名前を呼ぶ。 その男は苦しそうに、この行為を拒むようにゆっくりと顔をこちらへ向ける。 伸びた髪を揺らし、長い睫毛を瞬かせながらゆっくりと、ゆっくりと何もかもを焦らすように。 そして、俺とパチリと目が合った瞬間。 その大きな瞳が見開かれ紫色をした唇が開かれる。 「…………ぁ、………ご、……」 ごめん そう言おうとした口を、俺は左手で封じた。 いつから聞いてなかっただろう。 聞きたくてたまらなかったその声で「ごめん」の言葉は聞きたくなかった。 俺は感情が高ぶって今にも泣き出しそうになって。 泣きたいのは俺じゃない。こんなの格好つかない。 そうなんとか言い聞かし、どうにかαらしく笑ってみせた。 「頼む。久々に聞く声は、俺の名前がいい。」 そう言うと その男は頷くでもなく、苦しむでもなく なんとも言えない温かい顔をして 目から涙を零しながら一言 「み、なき……っ、…!」 と、掠れた声で囁いた。 俺はもう耐えられなくて その体を力強く抱きしめる。 もう、離してたまるかと。 細くなって骨と皮みたいな体になっても 色が何もかもなくなった肌を見ても 掠れて、あの日の笑い声とは似つかない声を聞いても お前が お前であることは変わらない。 「遅くなって、本当に悪かった。許されなくてもいい。……ごめんな、皐月。」 「……抱きしめて、もっと…も、っと強く……っ、…名前、呼んで…」 「皐月、皐月……ッ、皐月…!」 骨が折れるんじゃないかってくらい強く抱きしめる。 弱々しく俺の肩に触れる手が小さくて、俺は余計に虚しくて。 何度も情けない声で名前を呼んで目を閉じた。 君に逢いたかった 君がよかった なんて格好悪いんだろう。 何も救えやしなかったのに、まるで英雄気取りでこの有様だ。 知らない誰かはきっと指さして笑うだろう。 それでも 「一緒に、帰ろう。」 「ん……、っ…もう、一人は……怖、い…」 俺達はもうこれ以上、離れてなんていられないんだ。 どうか今だけはこうして浸らせていてほしい。 例えこれが他人の力を借りた偶然の再会だとしても。 俺達は運命なんだから。 泣き疲れた皐月が俺の胸に寄りかかって、消えそうな声で呟く。 「……俺、…数え切れないくらい、知らない奴に抱かれた。」 「クスリ、何か知らないけど……何度も、毎日、毎日打たれた。」 「アンタの事 何度も忘れた、思い出せなくて 無かったことに…、しようとしてたんだ。」 「汚くて きっともうあちこち壊れてる 今だって、目もぼやけてて。…声だって、枯れてる。」 「な、ホントはさ。アンタは俺を…捨てたって、いいんだ。」 なんてそう言うから。 俺はどうしようもなく悲しくなる。 どうして、そんな事を言うんだ。 なんでお前はいつも他人にされた苦しみを自分の汚れにして俺を守ろうとすらんだ。 泣き叫んで苦しい、苦しいって。 そう喚いたって誰も責めたりしないのに。 「皐月、…俺はな。」 そう声を上げた時、部屋に電子音が流れる。 制限時間の終了を知らせる音だ。 皐月がビクリと体を揺らし、ガクガクと震えた。 俺はその体を抱きしめて今度こそ嘘じゃない「大丈夫」を唱える。 もう、二度と怯えなくていい。 俺がお前を必ず守る。 ベッドと傍にある電話が鳴る。 本来なら延長するかどうかを尋ねるものだが、今回ばかりは違う。 『皆木様、お時間の方が…』 「コイツを連れて帰りたい。」 『……はい?』 「何をすれば俺の物になる?…いや、返してくれるんだ。」 俺の声にプツリ、と電話が途切れた。 腕の中でガクガクと震える皐月へ俺は背広のジャケットをかける。 もう少しも傷つけずに済むように。 どうか、悲しまずに済むように。

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