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前も見ずに、アスファルトと少し前の靴だけを向いて歩く。
蒸し蒸しと暑くてタダでさえない体力がもう底をつきそうだ。
ボクが疲れ果ててやっぱり家に帰ればよかった、と思った頃ようやく前の足が止まる。
「着きました。」
その声に顔を上げると、小さな一軒家が建っていた。
左右の家と同じ形のいわゆる量産型の住宅街。
玄関の扉を開ける彼は扉を閉じずにボクを待っていた。
「俺の部屋行っててください、二階に上がってすぐの部屋です。飲み物何がいいですか?」
「なんでもあるの?」
「水か麦茶かソーダかオレンジジュースしかないです。あと珈琲。」
「ソーダで。」
「炭酸好きなんですね。」
何故かそう言って笑うと、廊下の向こうに行ってしまう。
見た目より狭そうな家だ。
ボクはよろよろと二階へ上がると説明通りすぐ目の前にある扉を開ける。
広いとは言えない部屋は殺風景で寝て勉強をするくらいしか出来なさそうだ。
「…普通の、家だな。」
そう呟いて床に座る。
冷房のついてない部屋は蒸し暑くて、ボクは目を閉じたままサウナにいるみたいだと呑気に思っていた。
「うわ、なんで冷房つけないんですか。」
「つけてって言わなかったでしょ。」
「子供ですか。ほら、冷たいソーダ飲んで。何なら食べてくれるかわからなかったのですぐ食べれそうなやつ色々持ってきました。」
声に目を開けると、目の前にコップを差し出される。
ありがたく口をつけて炭酸の強いソーダを飲みながら机の上へ目をやる。
ショートケーキに煎餅、カップに入ったスイカとアイスクリーム。
おにぎり、カップ麺、即席のスープやおかゆまである。
「…アイス。」
「一番急いで食べないとやばそうなの選んでくれてありがとうございます。」
「そういう訳じゃないけどね。」
差し出されたカップのアイスを受け取り、蓋に爪を引っ掛ける。
…開かない。
くるくる回しながら開かない蓋に諦めようかとしていると、千葉クンがボクの手からアイスを取り上げる。
「ずっと引きこもってたんですか。」
「まぁね。」
「そりゃ体力も落ちますよ。ほら。」
「ありがと。」
蓋と、ついでに中の紙も剥がしてアイスが返される。
カレースプーンでアイスを食べながら久しぶりの糖分と食べ物にようやく気が落ち着く。
「キミ、あんな追い出され方したのによくまた声かけれたね。」
「俺が声かけなきゃ、先生死ぬんじゃないかと思って。」
「そんな事思ってるようには見えなかったけど。」
「感情表現が乏しいのは生まれつきです。」
まぁ、そんな人もいるかと納得。
冷たいアイスを次々と口へと運ぶ。
机の上のコップの中で炭酸の泡が弾けた。
「普通の家で、普通の夏休みみたいだ。」
「普通の家なので。」
「そっか。素敵だね。」
「ありがとうございます。」
隣でショートケーキを食べながら彼は笑う。
こんな普通の家で生まれてれば、ボクだってもう少しまともに生きてこれたのかな。
なんて、今さら責任転嫁もいいところだ。
「独り言、聞いてくれる?」
「いいですよ。」
「楠本クンね。あの最後に来た次の日、誘拐されたんだって。風俗で監禁されてレイプみたいに売られてたって。
優がそれを聞いて助けに行って今は病院に一緒にいるんだ。助けに来るまで約1ヶ月、彼は酷い環境にいた。」
「……まじですか。」
「うん。優は…助けに行くまでの1ヶ月、ううん…ずっと。きっと彼の事を考えていたんだろうね。」
食べ終えたカップを机の上に置いてサイダーを喉に流し込む。
弾けた泡がジリジリと喉を焼く。
食べ物を受け付けない喉が悲鳴をあげた。
「ボク、そんな優にね。楠本クンとのことを『そんな事』って言っちゃって怒らせたんだ。喧嘩して、連絡もできなくて。どうしたらいいのか分からなくて相談する人もいなくて一人でどん底みたいな気持ちだった。
家で1人っきりで蹲ってて。
本当は今頃、優と二人で遊んでたりしたのかなぁって思って虚しくなって。
でもさ。」
千葉クンはお皿の上で最後に残したイチゴをコロコロと転がしながら、相槌を打つ。
うん、はい、それで。
ボクの誰のためにもならない独り言を熱心に聞いてくれた。
「この間急に電話があって。ごめんねってお互い謝って安心したんだ。でも…すぐに話は彼の事になって。また会えた、楠本クンは無事だった。
また手を貸してくれって。」
「……先生。」
「まるでボク、2人のお手伝いをするために仲直りしたみたいだなって苦しくて。優はきっとそんなつもりないんだ。それなのにね。
そう思っちゃうボクが嫌で。気持ち悪いよ。」
あぁ、弱いな。
立てた膝に顔を埋めて蹲る。
家にいた時と同じみたいに。
大の大人が、お世辞にも小柄とはいえない体で。
「……優の事、悪くなんて思いたくないのに。優に当然みたいに大切にされて想われてる彼が憎いよ。」
「本当、最低な性格してますね。」
「そうだね。ボクもつくづくそう思うよ。親友の幸せ、どうして心から祝えないのかな。」
気分が落ち込んで、吐き気が昇ってくる。
辛いのはボクじゃない。
ボクが今苦しんでいる感情は無駄なもので、誰一人救われなくいそんなものだ。
わかってる わかってるのに。
「ボク、ボクが世界一嫌いだ。
死んじゃえばいいのに。」
エアコンが音を立てて空気を吐き出す。
時々パチパチと泡の弾ける音が鳴る。
窓の外からは薄らと蝉の声が聞こえた。
いつかのこんな夏 キミと過ごしていた季節。
キミとずっと一緒にいられる夏休みが好きだった。
この季節がボクは大好きだったのに。
「貴方が楠本を傷付けるのも、先生を恨むのもお門違いだと思いますけど。」
目の前に真っ赤なイチゴが差し出される。
優より大きな手と優より少し高い声。
優と似てない話し方。
「貴方が傷つく事まで、貴方の苦しい感情まで。…別に押さえつけて嘘にしなくたっていいんじゃないですかね。」
口を開き、イチゴを口に含む。
酸っぱい、甘くないイチゴ。
ぐちゃりと音を立てて崩れていく。
跡形もなく 形を消して。
あぁ
ボクの恋はとっくに終わってたんだ。
どうして それに気付かなかったかなぁ。
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