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「覚えてないって…どういう事だ、なんで俺を…?」 情けない声が出る。 震えている。 俺らしくない、と俺でさえそう思った。 脳裏には何故か、いつかの日に怪我だらけの顔で笑う奏斗の顔が思い浮かんでいた。 「そんなの俺は知りません。ただ、貴方の話をするとあの人は貴方の事を覚えていなかった。誰?病院の先生?って。」 「…ど、ういう……だって、奏斗は……」 「…時枝先生は、なんですか?」 暗い病室から見た千葉は、目が影になって表情が読めない。 日が傾いてきているんだろう。 夏の日は落ちるのが遅い。 この季節は、奏斗と遊んでいられる時間が長かった。 だから 夏が来るのが待ち遠しかった。 そんな感覚 もう何年も忘れていたけれど。 喉がキュ、と締まる。 頭の中で言葉をいくつも探すけれど、上手い言葉が見つからない。 奏斗は 「俺の、…親友なんだ。」 「…だからなんですか?」 「……だから?」 「担当医の人が言っていました。一時的な記憶の混乱だと。病室を出た後、あの人のいない所で聞いてみたんです。 どうして皆木先生の事だけぽっかりと抜け落ちているのかと。」 その言葉に胸が締め付けられる。 奏斗の中から消えるべき記憶は、他に沢山あるはずだ。 幼少期の記憶や、親のこと。 忘れてしまった方が楽な事はいくつでもあげられる。 その中で俺が忘れられる? ふと、一つの事が頭に過ぎった。 俺は それらの記憶よりも。 「部分的に失う場合、断言出来る理由は無いらしいです。…けれど一番に強い理由は心のどこかで『忘れたかった』『無かったことにしたかった』又は、『自分でも気付かないうちに自分を追い詰めていた存在』だそう。 もちろん一概には言えません。 俺はね、先生から貴方のことを聞いてました。 あの人はいつも言うんです。」 「……、……?」 千葉は、1度咳払いをする。 それから少し高い声で、まるで奏斗の様に明るく言った。 「 『優はね、ボクの大切な親友なんだ。ボクには、優しかいないから。』 ってね。」 胸が、締め付けられるように痛い。 俺が奏斗を苦しめていた?どうして? 何をしたのか自分でもわからない。 むしろ 何もしていないのではないか。 何も しなさすぎて? この数カ月、俺はいつだって皐月の事を考えていた。 何よりも 自分の事よりも。 それは 奏斗だって分かっていたはずだ。 奏斗は文句なんて言わなかった。 忠告やアドバイスはしてもそれは俺のためのものだった。 「…ねぇ、先生。」 「やめろ!!それ以上、言うな…っ俺は、……」 頭が割れそうになる。 俺は、ただ。 ただ 皐月を救いたかった。 ただ一人を救って、幸せにしたかった。 「…楠本が起きてます。」 「え……?」 千葉の言葉にハッとして振り向く。 皐月はベッドの上に座ったまま首を傾げてこっちを見ていた。 ほとんど日が落ちて暗くなった病室。 明かりをつけないと皐月は怯えてしまうだろう。 震える手で壁に触れる。 確か、この辺りに電気のスイッチがあるはず、で。 「皆木先生。」 名前を呼ばれるのと同時に、伸ばした手が握られる。 強く、骨が軋むほどの力で。 「楠本を守るために、時枝先生を犠牲にするならもう2度と関わらないでください。俺はあの人を愛しています。 …そんなつもりはきっと無かったんでしょう。きっと、貴方はあの人の事を今も変わらず親友だと思っているはずです。わかっています。 でも、貴方の事を語るあの人はいつも辛そうだった。時々壊れた様に泣いていました。」 「……泣く、…?なんでアイツが俺の事で…」 「その思考、おかしいと思いませんか。時枝先生が貴方の事で泣いたんじゃない。 貴方のせいで時枝先生を泣かせたんです。」 その言葉は、冷たくて。 そして正しかった。 俺は何も言い返せず、千葉の影になったまま見えない瞳を見つめた。 どうして こんな事になったのか。 全ての元凶はきっと俺なのだから。 「偉そうな事を言ってすみません。帰ります。 今は、楠本を大切にしてあげてください。こんな事を言いましたが楠本の事は普通に心配です。貴方だって今は正常ではないはず。 お大事に。」 強く握られた手が離され、代わりに病室が明るくなる。 俺は放心状態のまま立ち去る千葉と閉じる扉を見つめていた。 カチ、カチ、と何度か秒針の音が響く。 秒針より少し早い心臓の音が体に響きズレに吐き気が回る。 視界がグラグラと揺れ、倒れてしまうんじゃないかと思った頃。 後ろからか細い声が聞こえてきた。 「皆木…?誰か来てたのか?」 俺が、守らないといけない。 ここで俺が弱ってしまったら誰が守る? 「いや。病院の人間だ、気にしなくていい。よく眠れたか?」 「ん。」 「よかった。体は?痛くないか?後から怪我に気付くこともあるからな。打ち身とか…」 「大丈夫だって。本当、過保護だな。」 「うるさいな。備えあれば憂いなしって言うだろ。これでも心配してるんだ。」 「…そう。まぁ、悪い気はしない。」 「それは結構。」 ベッドへ近付きながらそんな会話をすると、皐月は少しだけ嬉しそうに笑う。 そんな皐月の頭を撫で俺も釣られるように自然と笑った。 皐月を守るために、奏斗を犠牲にするなら。 その言葉を思い出していた。 二人とも大切でどちらも許せないというのは それは、自己満足のエゴに過ぎないのだろうか。

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