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ボクはケラケラ笑いながら、知らない誰かの背に体を預ける。
この人が誰かなんてどうだっていい。
ボクが誰かの特別じゃないってことさえわかればそれでよかった。
これでボクは、風磨のために生きていける。
「もうすぐ朝が来るよ。楠本クンの所に帰らなくていいの?」
『なんで俺とアイツの関係は覚えてるんだ?』
「知らないよ。とある子が楠本の傍には皆木先生が付いてるって言ってたから。キミは、楠本くんの知り合いなんだろうなって思ってただけ。」
ボクがそう言うと、皆木さんの指が震える。
じっとその指を見つめた。
それから迷ったような文字が何度かグニャグニャと並んで、最後に思い切ったように早足で言葉が書かれた。
『楠本の事は、どこまでも覚えてるのか?』
「どこまでも?」
その声に記憶をたどる。
彼は、ボクの生徒でオメガで酷いレイプやいじめにあっていた。
そんな彼が階段に落ちかけたのをボクは助けた。
どうして病院で彼といたのかというと、それは誘拐された彼がここに入院しているのを見ていてくれと頼まれたから。
誰に?
「………あれ。」
どうして彼と出会った?
どこで、どうして。
階段の上にいた誰かは誰?
彼の近くにいた理由は、彼に手を出したきっかけは。
誰かが、いた。
「へ、………ぁ"、っ……」
胸の中で何かがぐるぐると回る。
気持ち悪い。
なに、これ。
思い出せない記憶が引き伸ばされてぐちゃぐちゃに混ざっていく。
これは何?どれ?
誰?キミは?
ボクは?
視界がぐるぐると回る。
頭を硬い何かで殴られたような痛みに襲われ、胃が裏返りそうになる。
「ぅ"、っ……ぉ、え"、ッぐ……は、っ…」
「………ぁ、…」
びちゃ、
と胃液と無理やり食べた病院食が口から溢れる。
それは音を立ててパジャマを汚しながら床に広がった。
よく見えない。
ボクは月へ縋るかのように、手を伸ばしたまま床に崩れ落ちた。
カツカツと足音が遠ざかっていく。
思い出せないよ。
記憶が、何もかも繋がらない。
誰かが間にいたはずだ。
風磨と出会った理由も、それすらも。
何も無いよ。
「……った、……、すけ……、て……っ……」
泣きつくようにそう絞り出す。
もう、誰の声も音も聞こえない。
静寂の中にボクの嘔吐の音だけが響いた。
頭が痛い。
助けてよ。
ねぇ、助けて。苦しいよ。
どうして一人ぼっちのくせに、失った記憶を探してしまうの。
*
暗闇の中 誰かの名前を呼んだ。
名前すら知らない、誰かの名前を。
「奏斗さん。」
その声に、驚くほど自然に目を開く。
辺りは眩しくて太陽の中にいるみたいだった。
「……何、その目。」
「泣いてました。」
「どうして?」
「貴方が死んでしまうかと思ったから。」
真っ赤な目をした彼は、ボクの指の先を握りしめたままそう答えた。
ボクが意味がわからない。という顔をすると、両手でボクの手を握りこんではその手へ息を吐くように語った。
「今朝、病室に来たらベッドにいなくて。慌てて探し回ったらベッドの横…窓際で倒れてました。嘔吐物にまみれて、片手で壁を引っ掻いたまま。」
「……覚えてない。」
「錯乱状態だった様です。爪、剥がれてるの気付いてますか。」
「今知ったよ。だから指握ってるの?」
「はい。見たくないから。」
素直な返事に、裏切るように指を引き抜く。
天井に向かって手を伸ばすと中指だけ爪がなくなっていた。
正確に言うと、ガーゼが巻かれていた。
昨日の夜の記憶が無い。
眠れなくて月を見ていたのは覚えている。
それ以降、何があったのかさっぱりだ。
「記憶の混乱。忘れた記憶を無理やり引き出そうとしたせいで、精神的に追い詰められたようです。」
「無理やり思い出そうなんてしてないのに。」
「誰かが思い出させようとした可能性は?」
「んー……ないと思うけどな。誰かと話した覚えないもん。」
「貴方の記憶は宛になりませんけどね。」
その通り。
伸ばしていた手を下ろし、痛む喉に触れる。
吐いたせいか。
吐くのには慣れているけどこの喉の痛みにはまだ慣れない。
ボクがあーあー、と声がちゃんと出るか確かめていると風磨がつまらなそうに言った。
「楠本は今日で退院みたいです。もうすぐですよ。」
「思ったより早いね。ボクの方が置いてかれるのはちょっと惨めだな。」
「記憶障害の方の検査がありますからね。もう少しこのままですよ。怪我も、多少はリハビリがいりますし。」
「わかってるよ。楠本クンもようやく幸せになれるんだね。一安心だ。」
「貴方が言えたことじゃないですけど。」
「あはは。惚気話の相手くらいにはならなきゃ、許して…もらえ、な……い、………」
ドクン、と心臓が揺れる。
あれ?
誰と、何の、どうして。
と、思考を巡らせた時。
顔の真横に手をつかれたかと思うと、次の瞬間に唇に何かが押し当てられる。
柔らかい何か。
ボクが目を見開くとすぐにそれは離れた。
「な、……っ、!?」
何するんだ、と叫ぼうとすると彼はそんな言葉を言わせるより先に泣き出しそうな悲しい目をしては
「俺以外、今は考えないで。」
と呟いた。
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