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春哉の過去と、俺達。-2
気が付いた時には、【父親】という存在は家の中に無かった。
俺が生まれてすぐ、出て行った。と兄の夏生に聞いただけだ。理由については、知りたくないし、名前も顔も知らない父親についてはどうでも良かった。
元々、いないのだと俺は思ってる。
母は、俺と夏生を育てる為に朝から晩まで働いていた。近所に住んでいたおばあさん……他人なんだが、1人暮らしをしていて、ひょんな事から母親と知り合いになって甘えたそうだ。その辺の詳しい事情は、夏生も俺も知らない。ただ、近所のおばあさんというだけだ。
俺が覚えているおばあさんの事は、自分の孫の様に可愛がってくれた事だ。それと、色々な童謡を歌ってくれていたのを覚えている。しわしわな手だけど、俺を優しく包んでくれていた。
母について覚えている事は、疲れた顔をしていても微笑んでいた事。眠る前に俺を抱き締め、微笑み、俺を寝かせ、自分は……荒れ始めてた夏生の帰りを、冷めてしまった夕飯と一緒にひたすら待っていた。
おばあさんが死んだのは、俺が小学校に入る少し前だった。
母へ幾ばくかの金と、夏生へスニーカーと、俺にランドセルを残して、1人、眠ったまま目を覚まさなかった。
自分の子供とは、長く絶縁状態だったらしい。それは、後から夏生に聞いた。葬式もやったそうだが、俺は覚えていない。
それから、小学生になり、夏生が16になった夏の終わり頃。母が倒れた。親戚はいない。そう聞いたのは、俺が中学に入ってからの命日だ。
――毎日、病院に通った。夏生は、近寄らなかった。多分、見たくなかったんだと思う。大分荒れていたし、家にも近寄らなくなっていた頃だったから……。
それでも母は、病床から俺の頭を撫で、微笑んで、夏生は優しいのだと俺に言ってた。いつも、起きると冷たい夕飯は無くなっていて、肩から毛布を掛けられていたと嬉しそうに話していた。
母の手も、好きだった。水仕事と、接客をする手。少しカサついた手だったが、温かくて好きだった。
でも、その年の冬。冷たい、雨の日。母は、死んだ。
珍しく学校に行っていた夏生に、連絡が入ったらしい。慌てて小学校まで迎えに来た夏生に連れられ、病院に駆け込んだ。
俺は夏生と手を繋いだまま、母を見ていた。ただ、俺はどういう事かさっぱりだったから、眠ってるんだと思いながらぼんやりと眺めていただけなんだ。
それと、俺の手を握る夏生の手を覚えている。凄く強く握るから、俺は痛くて、離して欲しくて、見上げたら夏生は泣いていた。ぼろぼろ、涙を流して。初めて見た姿に、驚いた。何度も、何度も、「ごめん。母さん、ごめん。」って言ってた。それを見てやっと、母はもう俺に笑ってくれたり、頭を撫でてくれる事はないのかと思った。それから、夏生に釣られる様に泣いた。
それからについては、よく覚えていない。走り回る夏生と数人を見ながら、俺は自宅で眠る真っ白な母の隣りに座って母の冷たい手を握ってた。
夏生が言うには、その時走り回っていたのは今の職場の社長やその奥さんや従業員達だったそうだ。母が死んですぐ、今の職場の社長と連絡を取ったらしい。母が、夏生に連絡先を渡していたそうだ。自分に何かあったら、連絡するよう言われていた様だ。
その社長と、社長の奥さんは母の友人だった。母の勤める店の常連で、同い年だったから気が合ったと本人から聞いた。
真っ白な母の隣りで、あれよあれよと全て片付いた。その職場の人が手伝ってくれたからだ。
そうこうしていたら年が明けていて、春になって、夏になって、俺は小学校2年生になっていて、夏生は17になった。
それで、17になった夏生は学校を辞めた。そのまま、例の社長の会社に就職をした。
同時に、俺の通学路は家から夏生の職場。職場から小学校。小学校から職場。職場から家に。そういう風になっていた。
社長と奥さん、従業員達は、俺達を自分の息子や兄弟の様に接してくれた。
そこまでは、普通だった。環境が、日常が少し変わっただけで、何の変哲も無い日常だった。なのに、突然。俺の生活は変わった。
どこから聞いたのか――今思えば、多分保護者なんだろうけど――俺に父親がいない事と、母親が死んだ事が歪んだ事実として広まった。
【父親の分からない俺に見切りをつけて、母親は兄弟を残して自殺した。】
そんな話しが広まり、周りは、俺を見る目を変えた。
見下す目。哀れみの目。好奇心に満ちた目。汚い物を見る様な目。友人としての目は、全て消えた。そして、俺に対するイジメが始まった。
最初は、悪ふざけ程度だった。それがだんだんと、エスカレートした。教科書は落書きだらけになるし、机も傷だらけになったし、靴も無くなるし……小学生だからこそ、悪ふざけとの境界線があやふやだったんだと思う。
それでも担任は、注意すらしなかった。そういえば、若かったな……新任の先生だった覚えがある。教科書がボロボロになっても、俺が汚れたまま授業を受けても、1人体操服のままでも、上履きのまま帰ろうとも、彼は何もしなかった。ただ、見ていた。興味を持つ事を放棄して、俺を見る事もしなかった。他の先生達も、気付いていたんだろうが他クラスだから、俺に何か聞こうとはしなかった。
だから、1人でずっと本を読んで過ごした。
昼休みは1人で食べて図書室で過ごして、学校が休みの日は社長の家で奥さんの隣りで本を読んで、どこにいても、ただ静かに過ごしていた。ばれたくない一心だった。元々、本は好きだったから。だから、怪しまれなかった。
それから、俺が10歳の時。家族が増えた。夏生は、19で父親になった。所謂、授かり婚だった。
だけど、長くは続かなかった。18の女が、自分の赤ん坊――心と、夫の小さな弟の世話をする。それが耐え切れなかったんだろうな……家の鍵と、離婚届け。そして、穏やかに眠る心を残して出て行った。
夏生は、【若気の至りってやつだな。】そう言って笑っていた。
また、社長宅にお世話になるようになって、俺は小学校を卒業した。イジメについては、バレなかった。
あぁ、こうして静かにしていれば良いのか。そう確信した。
ここで、あの2人が出てくる。
俺は、夏生と社長達に無理を言って、学区外の離れた中学を選んだ。俺は、逃げたかったんだ。だけど……あの2人がいた。あの2人の家からしたら、学区の中だったらしい。
驚いたよ……そして、俺は捕まった。
***
ここで春哉は1度口を閉ざした。誠は言いたくないならと言ったけど、春哉はゆっくりと頭を横に振った。
***
きっかけは、中一の夏。だったかな……。性についての授業って、やったろ?ぼんやりした知識が確定し、そういう動画がある事を知り、知識として保管された頃。
俺は……あいつらに、犯された。
よく、覚えている。忘れようと思っても、嫌な事程忘れられないもんだ。
放課後だった。酷く暑い日で、外に出るだけでも汗が滲むような日だった。帰ろうと下駄箱を開けたら腕を掴まれて、靴を履き替えろと言われた。
問題になるのも、そのせいで身内に呼ばれる事も嫌だったから、俺は黙って履き替えて、連れて行かれるがままになっていた。
……あぁ、そうだ。今頃だ。テスト期間の少し前だったんだ。だから、人がいなかった。多分、職員室には先生がいたけど、エアコンをつけているし、試験前だったからカーテンは締め切ってたんだ。
どこから入手したのか、合鍵でも作ったのか知らないけど、俺は2人に体育倉庫に押し込まれた。蒸し風呂状態で、どっと汗が噴出した。鞄を取られて、制服を下だけ脱がされて……抵抗は、した。したけど、暑さと、匂いにやられて大した抵抗は出来なかった。
2人の会話は、ぼんやりとしか覚えていない。保健がどうの、女子がどうの……多分、俺の体で練習のつもりだったんだろうな。あぁ、あと、どこを殴れば大人しくなるかとか、そんな話も聞えた。
俺は、とにかく怖かった。ただ、それだけだった。目の前にいる奴らが同級生だと思いたくなかった。同じ人間なんだと、思いたくなかった。
でも、俺はされるがままだった。大人しく、受け入れていれば、問題は起きない。迷惑を掛ける事もない。そう思っていた。
だから、それ以降も呼ばれれば応じた。
下駄箱に入れられた、ノートの切れ端が合図だった。
場所は、色々だった。体育倉庫、どっかの廃墟。あの黒髪の奴の家。とにかく人目につかない場所に連れて行かれて、同級生とやらされた。男女どちらも相手をさせられた事がある。多分、乱交のAVでも観たんだろうな。2人はただ見てるだけ。2人が監督で、脚本で、俺は主役の女優か男優。そんな感じだった。
でも、基本はあの2人が相手だった。俺と、あいつらだけの、行為だった。多分、妊娠が怖かったんだろうな。とはいえ、俺相手でもちゃんとゴムはしてた。色々、怖かったんだろうな。あと、処理が面倒だったんだと思う。
特に、夏休みの間は酷かった。ほぼ毎日、あの2人といた。心は、まだ小さかったから、俺といるよりか社長の奥さんの所にいる事が多かった。
それで、どっちかの相手をしてる間、どっちかは眺めているか別の事をしてた。でも、そのお陰……と言って良いのか分からないけど、片割れが飽きたんだ。確か、彼女が出来たんだと思う。秋から、もっと寒くなると俺の相手は前原だけになってた。あいつは、飽きなかった。むしろ、回数が増えてた。
前原が相手だと、あいつの家に招かれて、あいつの部屋でシた。何度も、何度も。
だけど、それが油断に繋がったんだと思う。
2年生に上がっても、続いてた。春……夏の手前、だったかな。梅雨の時期だったと思う。雨が多かったから。
いつもの様に、下駄箱にノートの切れ端。場所は、前原の家。でも、その日は違った。切れ端に、教室にいろと書いてあった。言われた通り待っていたら、そのまま一緒に帰る流れになって……まぁ、前原の家に一緒に帰ったんだ。何があるのか聞けなくて、ただ黙ってあいつの後ろを歩いてた。
そう、あいつの家、結構な金持ちなんだ。白い大きな家に、広い庭があって。あいつの部屋は離れの蔵なんだ。夏でも涼しくて、古い建造物の独特な香りがして、居心地は良かった。
両親もいないし、お手伝いさんがいたけど、特にどうという事は無かった。あいつが構うなって言えば、その通りにしてた。
それで、いつも通り母屋の方で入れ替わりシャワー浴びて、あいつの服借りて、蔵に戻ってたら前原がベッドで座ってて、俺を手招いて――。
***
「この先は、もう良いだろ?」
「どちらでも。」
「ちょっとドキドキしちゃった……もう一声!!」
「あと……3行位。」
「何基準だよ。春哉、気にすんな。言いたくないなら、良いんだからな。」
「……うん。大丈夫だから。」
***
じゃぁ……その時、一番覚えている事だけ。
してる最中、前原が「ごめん。」って言ってきた事だ。それと、その日は優しかった。嫌だと言えば、それはしなかった。ただただ俺に優しくしてた。それが逆に、怖かった覚えがある。
――夜になって、解放されて、家に帰って、夏生に心配された。何をしていたのかしつこく聞かれたが、俺は遊んでたと答えて、遅くなってごめんと言った。そしたら急に、夏生に肩を掴まれたんだ。
首の……この辺かな。頚動脈辺り。ここを触られて、この痕を付けたのは誰だ。って、言ってきた。その時は、本当に分からなかった。夏生が、何を言っているのか。
でも、鏡で見せられて、ぞっとした。
いつもつけなかった痕を、証拠を、残したんだ。
夏生は、キレたよ。俺の肩を強く掴んで、心が泣いていようと俺にしつこく誰だと聞いてきた。多分、気付いてたんだと思う。イジメられてた事。その時も、今も、それ以上の事は何も言わなかったけれど。
それでも俺は、言わなかった。
***
「え、どうして?」
「んー……前原が、ごめんって言ったから。かな。」
「許したのか?」
「いや。許してはいないよ、今もね。ただ、何か、言えなかった。」
***
それで、また、あっという間に事が進んだ。今のアパートに引っ越して、中学も転校になった……また、迷惑を掛けてしまったと思った。
だから、俺はもう、迷惑を掛けない様に、新しい中学から変わることにした。口調も中身も見た目も変えた。上手く行った。俺を知ってる人がいなかったから、特にね。
それでやっと、【俺】は、【僕】になったんだ。
争いごとも、面倒事も、もう嫌だった。だから大人しく、人に優しく、大事を避けて、母の様に微笑んで、何事も穏便に。そう思いながら、【僕】になったんだ。
***
春哉が話し終わり、皆黙ってしまった。俺も、何て言ってやれば良いか分からなかった。
「……これで、お終い。」
雰囲気が、いつもの春哉に戻っていた。
ふっと笑った表情は、学校での春哉の物。でも、目の奥にある何かは、【俺】と言っている時の春哉の物に思えた。
「あー、その、何だ。お前って、結局ノーマルなの?」
おい、まじか。ぶっこんだな、誠。
「さぁ……?自分でも分からない。人を好きになった事、1度もないから。勿論、仲良くなりたいとは思うよ。」
あれ?嘘ついた?今更?つうか、この言葉が嘘なら、いるのか?やっぱり。好きな人。
春哉の嘘をつく時の癖は、微笑みが深くなって困った様に笑う事。でも、この場合だと、微妙だな。
「もうねぇ、春の変わり様について行けない。俳優になった方が良いよ。」
「心の為に働きたいなぁ。」
皆一斉に溜息を吐いて、誠が「喉渇いた。」と呟いた。それに賢悟と辰彦が賛成し俺はまた、ウーロン茶を5つ注文ようとした。だけど、春哉の声に動きを止め、春哉を見た。
「それにしても、あまり引かないね。」
苦笑、戸惑い。春哉の表情にそれらが見えた。
「だって――。」口を開いたのは辰彦。
「聞きたいと思ったのは、俺達だもん。だから、何て言ってあげれば良いか分かんないけど……ごめんね、気付いてあげられなくて。」
にこやかに言った辰彦。代弁をありがとう、辰彦。俺はちらりと春哉を見て、ぎょっとした。
「は!?春哉!?えっ!?ちょ、ハンカチとか持ってないよ!!」
「……龍司の慌てっぷり楽しい。」
「賢悟、茶化すな。ほら、これ使え。」
差し出してきたのは、室内に入る前に貰ってた紙ナプキン。ナイス、誠。俺、鼻かんじゃったんだよね。え?冷房のせい?違う違う、ぶっちゃけ、俺も泣いてます!!
「い、痛い、龍司っ!!」
「うっせ!!黙って拭かれろ!!」
2人で鼻をぐずぐず鳴らしながらそうやっていたら、向こう側からシャッター音が聞えた。あとで辰彦から言ってもらわないとな。油断も隙もねぇぜ。
「おい、何か飲むか?」
「俺ウーロン!!春バカはアイスティー!!ミルクで!!」
「ば、バカは君だろ!!」
「いーや、お前だね。秘密主義の二重人格め!!」
「え、何この流れ。ガチ喧嘩?やめてよー。」
「空気ぐちゃぐちゃだね。」
「ねー。あ、俺もウーロン茶。」
「同じく。」
「ん。」
「つうか!!何でもっと早く言わないかな!?俺、この前言ったよね!!親友だってさぁ!!」
「それでも言うつもり無いって、言っただろ!!」
「知らん!!」
「こ、の……自己中!!」
「っせぇ!!ネガティブイケメン!!滅べ!!」
「りゅーじー、それ、褒めてると思うよー。」
「止めなよ、ケン……誠ぉ……。」
「俺は知らない。」
「えー……。」
***
疲れた。
本当に。
全部、話してしまった。いや、1つだけ嘘か。でも、あれは、良いんだ。うん。俺には、好きな人はいない。それで良い。でも、明日が怖いな。明日の、あのメンバーの態度が、目が、言葉が。
明日、もし1人になってしまったらどうしよう。
誠、賢悟、辰彦……龍司も、俺から離れてしまったら――。
怖い。
旧校舎で過ごした時間も、バスでの龍司の笑顔も、あの3人の笑い声も、全て消さないといけないのか?穏やかで、賑やかな日々を、全て消さないといけないのか?
嫌だ。
「……ふ、ぅ……。」
「ん、ぅ……はるぅ、どしたぁ……?」
「何、でもない……。」
「何でもあるだろぉ……ほれ、兄ちゃんに言ってみ?」
「寝ろ。」
「寝ますよー。あと……2時間後には家出ますー。でも、弟泣いてたら心配しちゃうのが、兄貴ってもんだろ?」
「……ありがとう……でも、良い。本当。」
「それ、やめろっつってんだろ……じゃぁ、あれだ。俺、横なって、目ぇつぶってるから話せ。」
隣りでごそごそと夏生が体勢を変えたのが分かった。多分、俺に背を向けてくれている。少ししてその音が止んで、俺は夏生に背を向けたまま口を開いた。
「……実は――。」
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