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第2話
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彼はずっとひとりだった。幼い頃は体も小さく、その見た目のせいで周りの人間からは馬鹿にされるのが常だった。
『一族の恥だ。よく平気な顔で生きてられるものだな』
両足を抱き締め、小さくなって座っているフィルはそんな声を聞く。
毎日のように浴びせられる冷ややかな視線と、陰湿な嫌がらせ、あれから数年が経ったはずなのに、記憶は薄れてくれることもない。フィルは、ブラッドロー家にとって、あまりよく思われなかった存在だった。それは、彼が妻以外の女性との間に生まれた子どもだったからなのか、3人の兄たちよりもずっと優秀だったからなのか。今となってはどうでも良いことだ。
エリオットの寝室を数時間かけて徹底的に掃除して、そのあとはぶかぶかの執事服を自分の体に合わせて仕立て直した。
それだけの作業であっという間に昼になる。ひと段落すると余計にルッツから受けた屈辱が思い出され、彼はひとり屋敷の庭の隅でうずくまっていた。
掃除をする以外に訪れる人間などなく、あたりは静まり返っている。誰とも関わりたくないときはこうした場所を見つけてひっそりうずくまる、この性質は年を取ろうが変わらない。
『分からない奴には、分からせてやればいい』
聞き慣れた、主人の声がする。目を開く。彼を支えるのはいつも、主人であるエリオットだった。初めて出会ったときの衝撃は今でも容易に思い出せる。こうしてうずくまっていたフィルに、彼は不敵な笑みを浮かべてそう言った。
「…あの方がおれの姿を変えられたのだから、受け入れなければ」
どうにか奮起させようと声に出してみる。エリオットが悪気を持って何かをやることなど、フィルには想像がつかない。ならばこの状況を嘆くのは、エリオットに対する裏切りだ。
息をゆっくり吐き、顔を上げる。それと同時にかすかな足音がした。
「……なんだ、お前か」
現れた人物を見て力が抜ける。フィルの腹の高さくらいの身長しかない小さな少女が、ロング丈のメイド服を着て立っていた。
彼女の名前はアリス。素性は興味がないので全く知らないが、ルッツとよく一緒にいるのを見かける。ルッツと同じ銀色の髪を長く伸ばし、西洋人形のような透き通った青い瞳をしている年齢不詳の少女。
やつの差し金かと思ったフィルは、警戒心を露わにして彼女を睨んだ。
「…なんだよ」
彼女は何も言わないまま、その場から動かない。眉根を寄せてじっとフィルを見つめるだけだ。しばらく沈黙が続いた後でアリスは地面に文字を書きだす。
『大丈夫?』
小さな、彼女らしい文字が地面に刻まれる。理由は分からないが、彼女は口がきけない。フィルはその文字と彼女を見て、鼻で笑った。
「余計なお世話だ。…惨めなのは慣れてる」
ーーそうだ、こんなこと大したことではない。
フィルはゆっくりと立ち上がり、アリスを見下ろす。
「ヤツがその気なら、こちらもそれ相応で迎え撃つだけだ。上等だよあの野郎、ぶっ殺してやる」
アリスくらいの年の子供ならすぐに泣き出してしまうその凶悪顔に、しかし彼女は同情の視線を向けるだけである。
『フィルには、むり』
地面に書き出されたその短い文字に、フィルの口元が引きつった。
「あのさ、アイツが言ってたんだけど。おれらの中で実力が1番下なのって、おれだと思うか?」
少なくとも目の前にいる少女には負けないとは思う。だが、迫ってきたルッツの力に全く歯が立たなかったのも事実。
首を傾げて少し考えた後で、アリスは悲しそうな目でフィルを見上げる。そしてゆっくり頷いた。
「はあ?! いや、お前には勝ってるから! 調子乗んなよクソガキ…」
「おい、アリス。こいつと話すと馬鹿がうつるぞ」
「……ひっ、」
後ろから飛んできた聞き覚えのある声に、フィルは思わず小さな悲鳴をあげる。しまった、と思った時にはすでに遅い。振り返ると、面白いものを見つけたと言わんばかりの笑みを浮かべたルッツが立っていた。
「仔犬みたいな声がしたが…お前が飼っているのかブラッドロー」
「てめぇ…」
「ああそうか、犬はお前だったな。さっきもずいぶん可愛い声で鳴いて」
「おい! お前ふざけんなよ!」
かっと顔が熱くなり、慌ててアリスを見る。彼女は2人の会話の意味が分からないようで、きょとんとしていた。
「まずはその言葉遣いから躾けてやらないとな。言っておくがあれで終わりじゃない」
「冗談じゃ…」
「行くぞ、アリス」
フィルが言い終わらないうちにルッツはアリスとさっさと行ってしまう。心配そうな顔でチラチラとフィルを振り返るアリスと忌々しいルッツの背中を見送って、彼は拳を強く握った。
「クソが…誰がアイツの言いなりになんかなるかよ」
そう吐き捨て、煙草を咥えると火をつけた。
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